2009年06月17日

WTO3

今朝は仕事が長くなってしまい、ブログの時間が短くなってしまった。昨日は3時前に起きてしまったので、午後がきつかった。今朝も3時丁度の目が覚めたが、無理して寝ていた。一日のサイクルを3時からにしてしまうのはちょっと無理がある。せいぜい4時だ。4時前でも良いが、3時とか3時前ではない。そうしないと、どんどん早くなってしまいそうで、不安になる。早起きにも限度があるように思う。Blife-21の枝広女史は2時だそうだが、どんどん早くなってしまったようだが、ちょっと早すぎる。
  • 第7回 東京ラウンド(1973年-1979年)74ヶ月 102ヶ国 関税、非関税対策、「枠組み」協定 関税削減3,000億ドル相当達成。
  • 第8回 ウルグアイ・ラウンド(1986年-1995年)87ヶ月 123ヶ国 関税、非関税対策、規定、サービス、知的財産権、紛争解決、繊維、農業、WTO創設など。このラウンドでWTOを創設した。貿易交渉の範囲を拡大し、関税削減項目は40%あまりにも上り、農業助成金の削減、発展途上国からの繊維と衣類完全な自由化の協定。知的財産権の延長した討議。
  • 第9回 ドーハ開発ラウンド(2001年-)開催中 141ヶ国 関税、非関税障壁対策、農業、労働標準、環境、競争、投資、透明性、特許など。このラウンドはまだ、結論が出ていない。
機能

WTOの様々な機能の中でアナリストは以下の項目に注目している。
ー対象としている協定の実施、管理、運営の監督
ー交渉と論争解決の場の提供
加えて、WTOの義務は国家の貿易政策のレビューと貿易政策の首尾一貫性と透明性を保証し、グローバルな経済政策決定における見張り役となる。WTOのもう一つの優先度の高いものは発展途上国、後発発展途上国,
低所得国への支援であり、WTOの規則と規律に順応できるようにするために、技術協力と研修を行う。WTOはまた、経済の調査分析のセンターでもある。グローバルな貿易の実態の定期的な評価を行い、毎年、特定の話題についての出版物や調査報告書を出版している。最後に、WTOは Bretton Woodsシステム他の2つの要素であるIMFと世界銀行とは密接な協力関係にある。

貿易システムの原則

WTOは貿易政策の枠組みを確立する。結果を定義したり、指定したりはしない。すなわち、貿易政策による競争のルールを決めることに関心を持っている。1994年前のGATTとWTOを理解する上で、特に重要な原則が5つある。

1差別しない。 2つの主要な要素がある。最恵国待遇規定と内国民待遇政策である。

最恵国待遇はhttp://100.yahoo.co.jp/detail/最恵国待遇/
内国民待遇はhttp://100.yahoo.co.jp/detail/内国民待遇/
1858年に日米間に締結された日米修好通商条約の時期と1778年の米仏通商条約の内容を見比べてみると面白い。また、無条件最恵国条項の典型的なものとして、1860年に締結された英仏通商条約がある。当時、日本は相当なめられていた。今でもそういうところがありそうだ。

この両者は商品、サービス、知的財産権においてWTOの主要な規定に盛り込まれているが、これらの正確な範囲と性格はそれぞれの領域によって、異なっている。最恵国待遇規定が求めているものはWTOメンバーが他のメンバーとすべての貿易において、同じ条件を適用しなければならないとしており、言い換えれば、WTOメンバーは最恵国待遇を承認しなければならない。これは他のすべてのWTOメンバーに対して一定の製品タイプに対して貿易を許可しなければならないと言うことである。ある国に特別の待遇を与えるのであれば、他のすべてのWTOメンバーにも同様の待遇を与えなければならないと言うことである。内国民待遇は輸入されたものでも現地で生産されたものでも平等に取り扱われるべきであると言うことを意味し、少なくとも外国商品が市場に入った後にはである。また、貿易に対して非関税障壁に取り組むよう指導している。例えば、輸入品を差別した技術標準、安全標準などである。

2互恵主義
互恵通商協定はhttp://100.yahoo.co.jp/detail/互恵通商協定/

ただ乗りの範囲を限定しようと言う要求で、これは最恵国待遇の規定から出てきたものであり、外国市場によりアクセスできるようにするための要求である。関連したポイントとして、交渉する相手国に対して、そうすることによる利益が一方的な自由化による利益より大きいことが必要で、相互の譲歩によって、利益が目に見えるようになることを確実にすることが求められている。

3拘束力がありかつ実施できるコミットメント

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2009年06月16日

WTO2

なかなかWTOの歴史を勉強することがないが、今日は3時前から起きることができたので、一連のWTOの交渉会議を翻訳できるので、ぜひ勉強してほしい。では始めよう。

貿易の国際組織がない中で、長年にわたって、事実上の国際組織へと「それ自体を変革」していった。

交渉のGATTラウンド
関税及び貿易に関する一般協定(General Agreement on Tariffs and Trade )参照のこと

GATTは1995年にWTOが設立されるまで、1948年以来、国際貿易を管理する唯一の多数国参加の手段であった。1950年半ばと60年代に国際貿易の何らかの組織的な機構を作ろうとしてきたが、GATTは殆ど半世紀にわたって、暫定的な形で、半機構的に多数国参加の条約に基づいた体制を運営してきた。

ジュネーブラウンドから東京ラウンド

7つの交渉ラウンドがGATT主導で行われてきた。最初のGATT貿易ラウンドは更なる関税削減に集中した。その後、60年代半ばのケネディラウンドではGATT反ダンピング協定と関税引き下げの進展が見られた。70年代の東京ラウンドでは最初の大きな試みである、関税の形態をとらない非関税障壁への取り組みであり、その仕組みを改善し、一連の非関税障壁に対する協定を採用し、ある場合には既存のGATT規定を解釈し、また、他の場合には全く新しいものを取り入れた。こうした多数国参加の協定はGATTの全メンバーによって承認されることはないので、それらの協定はしばしば、「コード」と呼ばれている。こうしたいくつかのコードはウルグアイラウンドで修正され、WTOのすべてのメンバーによって多数国参加のコミットメントへと承認されていった。ただ4つ多国籍参加のコードが残ったままで、それは政府調達、牛肉、民間航空機それと畜産製品であったが、1997年にはWTO参加国は牛肉と畜産製品の障壁を撤廃し、残るは2つだけとなった。

ウルグアイラウンド(Uruguay Round

GATTの40周年記念を前にして、GATTの仕組みは新たなグローバル化する世界の経済に適用していくには負担が多すぎると言う結論に達した。1982年の閣僚宣言において認識されたが、それは構造的な欠陥であり、世界貿易で、ある国の政策によって、他国に影響を与えてしまうような場合にはGATTが管理できないと言うようなことなどがあり、その問題に対する対応として、第8回目のGATTラウンド、ウルグアイラウンドとして知られているが、1986年9月にPunta del Este, Uruguayで開催された。それは今まで承認された貿易の交渉任務の中でも最大のものであった。

話し合いは貿易システムにおいて、いくつかの新たな領域に展開し、特に、サービスと知的財産権の貿易であり、また、農業と繊維の繊細な分野の貿易の改革も行おうとした。すべての元々あるGATTの規定は見直された。ウルグアイラウンドの最終幕はおろされ、公式にWTOの体制が確立され、1994年4月に Marrakesh, Morrocoでの閣僚会議で調印され、爾後、この協定はMarrakesh Agreementとして知られている。

GATTはまだ、商品の貿易のためのWTOの包括条約として存在しており、ウルグアイラウンドの交渉の結果として、更新されており、1994年のGATT、それとその更新部分、1947年のGATT、これは未だに1994年のGATTの核心部分であり、元々の協定であるが、こうした区別は未だになされている。しかしながら、このマラケッシでの最終結果を受けた法的なまとめの協定は1994年のGATTだけではなく、60の協定、別冊、裁決、覚え書きの長いリストが採用された。この協定は6つの主な部分からなっている。

ーWTOを設立するための協定
ー商品と投資 1994年のGATTとTRIM協定(貿易に関連する投資措置に関する協定) を含めた商品の貿易に関する多国間協定
ーサービス サービスの貿易に関する一般協定
ー知的財産権 知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS)
ー紛争解決(DSU)
ー政府の貿易政策のレビュー(TPRM)

閣僚会議

最初の閣僚会議(WTO Ministerial Conference of 1996

就任の閣僚会議は1996年シンガポールで開催された。先進国と発展途上国との経済の大きな不一致がこの会議で、浮かびあがり、4つの課題として提起され、「シンガポール課題("Singapore issues)」として、共同で、付託した。

第2回閣僚会議(WTO Ministerial Conference of 1998

スイスのジュネーブで開催された。

第3回閣僚会議(WTO Ministerial Conference of 1999

シアトルとワシントンで開催されたが、失敗に終わった。大規模なデモ、警察、隔週国防軍が世界注目の中で、群衆を管理しようとした。

第4回閣僚会議(WTO Ministerial Conference of 2001

カタールのペルシャ湾のドーハで開催された。ドーハ開発ラウンドがこの会議で始まった。この会議はまた中国の参加を承認した。中国は143番目の参加国となった。

第5回閣僚会議(WTO Ministerial Conference of 2003

この会議はメキシコのカンクンで開催され、ドーハラウンドを造り出すのが目的であった。22の南の国家の同盟とG20の発展途上国、ここではインド、中国、ブラジルが主導している、はいわゆる「シンガポール課題」の協定に対して、北からの要求に抵抗し、ヨーロッパ連合とアメリカ内部での農業助成金の問題に帰結してしまった。この話し合いは進展することはなかった。

第6回閣僚会議(WTO Ministerial Conference of 2005

この会議は2005年12月13-18日に香港で開催された。4年越しのドーハ開発アジェンダ交渉が十分に前進して、2006年にこのラウンドを結論づけるためには重要であると考えられていた。この会議で各国は2013年の終わりまでにすべての農業輸出助成金の廃止に合意し、2006年の終わりまでにいかなる綿の輸出助成金を廃止することに合意した。発展途上国に対する更なる譲歩として、後発開発途上国からの商品に対して税金の免除、関税の免除の協定を行い、これはヨーロッパ連合の主導で、武器以外のすべての産品に対する無税・無枠措置(EBA)がとられ、しかし、3%の関税を限度に免除された。その他の主要な課題は2010年の終わりまでに完了する予定で、次の交渉のために残されることになった。

第7回閣僚会議

WTO総会が2009年5月26日に開催され、第7回閣僚会議が2009年11月30日から12月にかけて、ジュネーブで開催されることが承認された。議長であるMario Matus大使の声明ではこの会議の主な目的は2年ごとに開催されていた「定期」会議の規約違反の修復であり、2005年のドーハラウンドの失敗から時間が経過してしまったが、「規模が縮小した」会議が今回の交渉の場ではなく、「透明度をもち、小グループのよって処理しようとしたり、非公式の交渉の構造をやめて、オープンな議論をすることを強調したい。」と発言した。

ドーハラウンド

WTOは交渉の現在のラウンドである、ドーハ開発アジェンダもしくはドーハアラウンドを2001年11月にカタールのドーハで第4回閣僚会議にて、開始した。ドーハラウンドは野心的な努力をして、より包括的にグローバリゼーションを推進し、世界の貧しい人々を救い、特に、農業での障壁と助成金を削減しようとしている。当初のアジェンダはより貿易の自由化と新たなルールを作ることであり、発展途上国に対する実質的な支援を強化するためにコミットメントすることによって、支持することにあった。

交渉はかなりの議論を呼び、合意はなかなか達することがなかった。幾度かの閣僚会議とかその他のセッションにおいて激しい交渉を行ってきた。農業助成金を含めていくつかの主要は領域でまだ不一致がある。

GATTとWTO 貿易ラウンド
  • 第1回(1948年、ジュネーヴ)7ヶ月 23ヶ国 関税 GATTのサイン。45,000項目の関税譲許(関税の撤廃・引下げに係る約束)によって、100億ドルの貿易上の効果。
  • 第2回(1949年、アヌシー)5ヶ月 13ヶ国 関税 5,000項目の関税譲許。
  • 第3回(1951年、トーキー)8ヶ月 38ヶ国 関税 8,700項目の関税譲許。1948項目の関税を25%だけ削減。
  • 第4回(1956年、ジュネーヴ)5ヶ月 26ヶ国 関税 日本の承認 25億ドルの関税削減。
  • 第5回 ディロン・ラウンド(1960年-1961年)11ヶ月 26ヶ国 関税 世界貿易での49億ドル相当の関税譲許。
  • 第6回 ケネディ・ラウンド(1964年-1967年)37ヶ月 62ヶ国 関税、アンチダンピング 世界貿易での400億ドル相当の関税譲許。



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2009年06月15日

WTO

今週は木曜日から中国各地なので、ブログが書けるかどうか自身がないが、できるだけ毎日書くようにする。WTOは結構量が多いので、来週まである。早いもので、もう今年も半分終わってしまいそうだ。この英語の翻訳もこの3月からだからもうじき4ヶ月になる。最近、ウィキペディアが多いが、英語の方は日本語と違って、難しい内容が多い。

WTOは参加国間の貿易の規則を処理する。WTOは貿易協定を交渉し、公式化するための枠組みと論争の解決のためのプロセスを提供し、WTO協定に参加国が固守することを目的とし、その協定は参加国政府の代表がサインをし、その議会が批准しているものである。WTOが焦点を当てている多くの課題は以前の貿易交渉、特に、ウルグアイラウンド Uruguay Round (1986-1994)からのものである。この組織は現在、ドーハ開発アジェンダもしくはドーハラウンド(Doha Development Agenda )と呼ばれる貿易交渉を続けるよう努力をしている。これは2001年にスタートし、世界の人口の大半を占める貧困国の対等な参加を充実させようとしている。しかしながら、この交渉は意見不一致のために頓挫しており、これは農業の大量の商品の輸出業者と大量の助成農家の多い国家との間に起こっていて、輸入品の急増から農家を守るために「特別な緊急輸入制限対策」のまさにその条件で、もめている。現時点で、ドーハラウンドの行方はわからない。

WTOは153カ国のメンバーからなり、これらの国々は世界の貿易総量の95%以上を代表し、その他に30カ国のオブザーバーがいるが、その殆どは参加資格を求めている。WTOは閣僚レベルの会議によって管理され、2年ごとに開催される。一般理事会はこの閣僚会議の政策意思決定を行い、日々の管理に責任を持っており、事務総長は閣僚会議によって、指名される。WTOの本部は Centre William Rappard, Geneva, Switzerlandにある。

歴史
WTOの年代記(Chronology of the World Trade Organization)参照のこと 

ITO並びにGATT 1947
この詳細は International Trade Organization参照のこと

WTOの前任者である関税及び貿易に関する一般協定(GATT)は第二次大戦後に、国際的な経済協力に専念するための他の新たな多数国参加の機関に引き続いて設立され、この機関は著名な Bretton Woods機関であり、世界銀行とIMFとして知られている。貿易の同等の国際機関にITO(国際貿易機関 International Trade Organization )があったが、この交渉はうまく言った。このITOは国際連合の特別な機関の予定であった。貿易障壁だけでなく、その他の間接的な貿易に関する課題として、雇用、投資、制限されたビジネス実務などの商品協定を扱う予定であった。しかし、ITO条約はアメリカ合衆国ならびに数カ国の調印国が承認しなかったために発効することはなかった。








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2009年06月14日

保護貿易主義3

今日は保護貿易主義の最後になるので、中身がリカードの内容になっているので、Free Tradeの私のブログを復習しないと、理解できない。特に、貿易政策の厚生水準を復習してほしい。5月27日を参照してほしい。富山大学経済学部教授 垣田直樹氏が優しく書いているので、わかりやすい。http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2004dec/shihyo/index.html ここだけでも読んでほしい。

保護貿易主義者たちは保護貿易主義に反対をするような振りをした自由貿易モデルを誤った。それは課税政策を利用して、自国の競争から、外国の製造業者を保護すると言うものであった。外国製品の収入関税を除外すれば、政府はその収入を得るためにはすべて、国内課税に頼らなければならない。そうなると、国内の製造業者に重い税金がかかってしまい釣り合いが取れない。元レーガン政権の財務省補佐官Paul Craig Robertsが言うように、「アメリカの製品の外国での差別はアメリカの課税システムによって、補強されている。アメリカ市場で売られている外国の商品やサービスに対して感知されるほどの税金を課していないが、アメリカの商品やサービスの生産者に対してはたとえそれがアメリカ国内で売られようが、他の国に輸出されようが高い税金を課している。」

ポール・クレイグ・ロバーツについての日本語の論文翻訳は:http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/paul_craig_roberts.html

幼稚産業の議論(Infant industry argument

保護貿易主義の擁護者の中には新たに創業した幼稚産業を保護する関税を課すことは国内産業の成長を認めることであり、国際経済に中で、存続できる、しかるべきサイズになるまで守るべきであると言う意見がある。

保護貿易主義に反対する議論

保護貿易主義はしばしば、援助されるべき人々に害を与えていると批判されている。だから、殆どすべての経済学者は自由貿易を支持している。比較優位の原則の経済理論では自由貿易から得た利益はいかなる損失を上回り、自由貿易が失った仕事以上のものを作り出すということになる。財とサービスの生産において、国家に分業を促し、そこに比較優位(comparative advantage)をもたせるからである。保護貿易主義は死重損失(deadweight loss:5月27日のFree Trade7参照)をもたらす。この損失は社会的余剰のうち誰にも利益をもたらさない損失のことであり、自由市場においてはそうした損失は起こらない。経済学者Stephen P. Mageeによれば、自由貿易の利益は100対一ほど損失を上回ると言っている。

殆どの経済学者、ノーベル賞受賞者であるMilton FriedmanとかPaul Krugmanのように、自由貿易は第三世界の労働者を支援し、たとえそれが先進国の厳しい健康ならびに労働基準に見合っていなくてもである。というのは「製造業の成長は新たな輸出部門が作り出すその他の多くの仕事によるものであり、この経済を通じて、波及効果をもたらしてくれる。」このことは生産者に対して競争を促し、給与と生活水準を引き上げてくれる。経済学者の示唆では保護貿易主義を支持している人たちは表向きは第三世界の労働者の利益を助成すると言っているが、実際は腹黒く、ただ単に先進国における仕事を保護しようとしているだけだ。加えて、第三世界の労働者はそれがベストの買値であればその仕事を認めているだけであり、すべてお互いに合意した取引が双方に利益をもたらしているのだ。彼らがこの第一世界の企業からの低賃金の仕事を認めると言うことは彼らの他の雇用の見通しはもっと悪くなると言うことを意味している。

第一世界とはアメリカとその同盟国のことで、ここでは第三世界に低賃金の労働を求めることを非難している人たちに対する反論で、彼らの地元の賃金はもっと低いと言うこと言っている。だから、第一世界の企業が進出することによって、彼らの賃金と生活水準がよくなると言っている。

Alan Greenspanは米国連邦準備制度理事会の前議長であるが、保護貿易主義者の提案を批判して、「それは我々の競争能力を衰弱させてしまい、その保護貿易主義たちの道順に従っていたら、より新たな、より効率的な産業は拡張できる範囲がより狭くなってしまい、全体のアウトプットと経済の繁栄に損害を与えてしまう。」

保護貿易主義はまた戦争の大きな原因の一つであると非難されてきている。この理論の支持者によれば、17、18世紀のヨーロッパ諸国の絶え間のない戦争はその政府が圧倒的に、重商主義であり、保護貿易主義であったし、アメリカ独立戦争においても、イギリスの関税と税金が主な理由であり、第一次、第二次世界大戦の前の保護政策も同様である。Frederic Bastiatによれば、「商品が国境を越えることができなくなると、軍隊が来る。」

現在の世界の傾向

第二次世界大戦が終わってから、殆どの第一世界の国々の公式の政策は保護貿易主義を取り除くことであり、自由貿易政策を通して、国際条約とかWTOのような組織によって施行されてきた。しかしながら、第一世界の政府の若干の政策は保護貿易主義だとして、批判されてきており、たとえばヨーロッパ連合の共通農業政策(CAP)とか提案された「バイ・アメリカン」条項が経済回復のパッケージとして保護貿易主義としてEUの欧州委員会本部によって、批判されてきている。

共通農業政策(CAP):1958年に創設された欧州経済共同体設立条約であるローマ条約により、共通農業政策が規定され、1968年から本格的に実施されている。CAPは「共通市場制度」と「農村開発政策」の2つの柱から構成され、農業生産性の向上、農家の所得増大、農産物市場の安定化等を目的とする。財政支出の抑制、WTO農業交渉等を背景として、数次にわたり、支持価格の引下げ及び直接支払いや農村開発政策の強化に向けた改革が行われてきた。

WTOによる貿易交渉の現在のラウンドはドーハ開発ラウンドで、スイス、ジェネーブでの交渉が前回の最後の交渉だったが、行き詰まってしまった。2009年始めのロンドンでのG20の声明ではドーハラウンドは継続すると約束された。

以上で、保護貿易主義は終了した。次のテーマは中国が2001年に加盟したWTOだ。ここが経済のグローバリゼーションの大本山だ。これを勉強しないと、グローバリゼーションの政策部分が理解できないことになる。

WTO

WTO(世界貿易機関)は国際機関で、その創設者は国際貿易を監督し、自由化するためにこの機関を設計した。この組織は公式には1995年1月1日にMarrakesh Agreementに基づいて開始され、1947年からのGeneral Agreement on Tariffs and Trade (GATT)を引き継いだ。



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2009年06月13日

保護貿易主義2

今日は土曜日なので、仕事は昼頃からだから、このブログには多少時間が取れそうだ。この保護貿易主義はFree Tradeの逆だから、内容は今までの復習になる。わからない用語はすべて、Free Tradeかその前後のブログに書いてあるので参照してほしい。特に日本人には民主党と共和党の政策にはなじみが少ないがこの機会に勉強してほしい。オバマは民主党だ。人種差別の問題はここでは扱わないが、南部の民主党と北部の共和党の話が出てくるが、ここには公民権運動が有名だ。黒人の上院議員は今まで3人しかいないし、今まで、主だった黒人はマーティン・ルーサー・キングコリン・パウエルコンドリーザ・ライスぐらいしかいない。2009年現在は米加両国の最高指導者がアフリカ系が就任している事になっているが、日本ではあまり話題になっていない。ミカエル・ジャンというハイチからの黒人女性がカナダ総督に任命されている。

南部の民主党は徐々に彼らの党を再建し、北部の進歩党と同盟を組むようになった。両党は数多くの点で異なってはいたが、築かれてきた偉大な法人信託にしっかりと反対してきた。また、共和党の汚職は地方特有のものであった。この共通の敵に対して、利害を共有し、一緒になったことは民主党を活性化し、力を蓄えることができた。北部の進歩党は自由貿易を求め、共和党の権力基盤を揺るがそうとした。ーWoodrow Wilson(民主党の大統領 (1913-21))は議会でのスピーチで、こうしたことを認めた。1920年代に共和党の短い復活はあったものの悲惨な結果に終わった。Woodrow Wilsonのイデオロギーの代役であったFranklin Roosevelt(民主党の大統領 (1933-45))は保護貿易主義政策による大不況を本質的に責めた。この政策は前の共和党の大統領であったHerbert Hooverの範例であった。

民主党は自由貿易を促進し続け、南部の派閥の賛同を得て、他方で、注意深く、節度をもって、労働者側の高まる声とのバランスをとった。自由貿易は第二次世界大戦の連合国の戦後の共通した目標の一つであった。議論の数多くのラウンドと条約によって、徐々にではあるが、自由貿易の主張を発展させることができた。

これまでのラウンド交渉         参加国数
 ・1947年    第1回交渉           23
 ・1949年    第2回交渉           13
 ・1951年    第3回交渉           38
 ・1956年    第4回交渉           26
 ・1960〜61年 ディロン・ラウンド      26     
 ・1964〜67年 ケネディ・ラウンド      62      
 ・1973〜79年 東京ラウンド        102
 ・1986〜94年 ウルグアイ・ラウンド    123
 ・2001年〜   ドーハ開発アジェンダ  149
(出典:WTO事務局ホームページ)

 

民主党は大不況の非難に行き詰まってはいたが、徐々にではあるが自由貿易の熱狂者になって、今日のポジションを維持するようになった。

1960年代になって、民主党はその南部の基盤を失った。と言うのは北部の共和党と協調して、数多くの公民権改革の法案を通過させたからであった。共和党は熱烈な自由貿易支持をてこにして、公民権運動には暗黙の反対を行って、南部の支持を得ようとした。このようにして、共和党は民主党と支持基盤をトレードすることになってしまった。皮肉にも、声だかに自由貿易を支援してきたが、Herbert Hooverは大不況の扇動者であると言うレッテルを貼られており、その一方で、共和党は2008年の選挙では自らを保護貿易主義者ではないと宣言している。

保護貿易主義政策

多様な政策が保護貿易主義の目標を達成するために利用されてきた。それは以下の通りである。
1関税:一般的に関税は輸入財に課せられる。税率は輸入財のタイプによって異なる。輸入関税は輸入業者のコストを増加させ、現地市場において、輸入財の価格を増加させ、輸入財の量を減少させてしまう。関税はまた輸出にも課せられ、変動為替相場制における経済においては輸出関税は輸入関税とにたような影響が出る。しかしながら、政治的な理由で、滅多にこうした政策は実行されない。

2輸入割当:量を減らすことによって、輸入財の市場価格を上げる。輸入割当の経済効果は関税に似ているが、関税で得るべき収入の代わりにその金額が輸入の免許を持っている人たちに還元される。多くの経済学者たちは輸入の免許は入札をして、最も高い入札者に提供するかもしくはこの輸入割当は同額の関税に置き換わるべきだと主張している。

3管理障壁:国家は様々な管理規則を設けてきてことを幾度となく非難されてきた。それは食品の安全、環境標準、電気機器の安全などで、それは輸入障壁の手段である。

4アンチダンピング規制:アンチダンピング法規を支持する人たちは安い外国製品の「ダンピング」を防ぐのは現地企業を倒産させないようにするためだと言う。しかしながら、実際にはアンチダンピングの法規は通常、外国の輸出業者に対する貿易関税として使われている。

5直接的な助成金:政府の助成金は一括払いか、低金利の貸付けと言う形で、現地企業に与えられるときがある。そうした企業は外国の輸入品と十分に太刀打ちできないからである。これらの助成金は現地の仕事を「保護」するのが目的であり、世界市場と調整することにより、現地企業を支援している。

6輸出助成金:輸出助成金は政府が輸出を増やすためにしばしば使っている。輸出助成金は輸出課税の反対であり、輸出業者は輸出品の価格の特定割合の支払いを受けることになる。輸出助成金は貿易量を増やし、変動相場制を採用している国であれば、輸入助成金に似たような影響がある。

7為替操作:政府が外国為替市場に介入し、自国の通貨価値を低めるために、外国為替市場で自国通貨を売る。そうすることによって、輸入コストを挙げ、輸出コストを下げ、貿易バランスを改善することができる。しかしながら、こうした政策は短期的にしか有効ではなく、その国のインフレをおこしやすく、今度は輸出コストを引き上げてしまい、輸入品の相対価格を下げてしまう。

事実上の保護貿易主義

現代の貿易の競技場の中では関税以外の数多くの率先した手段が保護貿易主義政策として採用されてきた。たとえば、 Jagdish Bhagwatiのような専門家によれば、発展途上国は自国の労働もしくは環境基準に保護貿易主義政策を課す努力をしてきた。また、この観点から、輸入品の生産者にたいして許可を制限してきた。

さらに、自由貿易の議論ではしばしば知財、著作権そして大企業に利益をもたらす特許の制限のような保護貿易主義の規定を持ち出す人もいる。これらの規定は音楽、映画、薬、ソフトウェアならびにその他の製品の貿易を制限し、低コスト生産者への割当をなくして、高いコストの生産者だけに制限してしまう。

保護貿易主義に対する議論

自由貿易の反対者がよくする議論として、自由貿易に対する比較優位はグローバルに統合された世界においてはその正当性を失ってきていると言う。と言うのは今の世界では資本が国際的に自由に移動できるからである。Herman Dalyは環境保護経済学での規律においての指導的な立場にあるが、リカードの比較優位の理論は経済学での最も優雅な議論ではあるが、今日における適用は不合理だと言うことを強調している。「自由な資本の可動性は全体的にリカードの財の自由貿易における比較優位をなくしてしまっている。というのは、この議論では明らかにまた本質的に国家間において、資本ならびに他の要素が移動できないことを仮定しているからである。新しいグローバリゼーションの体制下では資本はコストが最も安いところに単純に流れていく傾向にあるし、すなわち、絶対優位を追求していく。

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2009年06月12日

保護貿易主義

昨日のセミナー、海野会での出席ありがとう。ACSのRoss Chanさんの難しい話を渡辺典子さん通訳ありがとう。7月の予定は10日で同じ弥生会館で、講師はANAの業務改革事業本部の日野さんだ。彼は大連の支店長の時からの友人だ。昨日からテーマは保護貿易主義となった。

アメリカ合衆国における保護貿易主義

自由貿易と保護貿易主義とは地域の課題である。アメリカにおける自由貿易は経済政策として、奴隷でアメリカの国を維持するために開発されたものが、保護貿易主義は北部の製造業の問題であった。奴隷制度が活気づいた問題と言う訳ではないが、2つの地域の貿易に対する違いが南北戦争の一因となり、今でも国の差異点になっている。

歴史的に南部の奴隷を維持した国々は彼らによる低コストの手作業労働のために、機械化の必要性を殆ど感じなかったし、どこの国からも商品を輸入する権利を支持してきた。彼らは商品を手に入れるために低コストの食品を輸出した。こうして、彼らは彼ら自身を自由貿易業者と呼んでいた。

他方、北部の国々では生産力を高めようとしていて、初期の北部の製造業者がより効率の良いイギリスの競争者と競争できるようにするためにうまく、関税を引き上げることができた。第一代のアメリカの財務長官Alexander Hamiltonの「製造業のレポート」に始まったのであるが、そこで彼は幼稚産業を保護するために関税を支持し、これらの関税から得たお金を輸出奨励金(助成金)とし、アメリカ合衆国は「自由貿易」理論に反対する指導的国家となった。19世紀を通じて、アメリカの指導的な政治家たちは上院議員Henry Clayを始めとして、ハミルトンのテーマを継続し、ウィング党の中で、「アメリカのシステム」として、継続した。

反対派である南部民主党は1830年代、40年代、50年代の一部において、幾度かの選挙で、関税と産業の保護に異議を唱えてきた。しかしながら、南部民主党員は北部より数で劣っていたため、アメリカの議会では決して強くはなかった。北部のウィング党は南部の激しい抵抗に打ち勝って、より高い保護関税をもとめ、獲得した。ある南部の州は関税の問題に対して、「無効化の危機」と呼ばれることを促進し、各国が連邦法を無視すると言う権利を持っていると言う議論であった。こうした関税の廃止の問題とその他スキャンダルが原因で、ウィング党は崩壊し、それに変わって、新参の共和党がAbraham Lincolnのもとで誕生した。リンカーンは自らを「Henry Clayが支持してきた関税を担いだウィング党員」と称して、強く、自由貿易に反対した。彼は南北戦争の間、44%の関税を実施し、その一部はユニオン・パシフィック鉄道の建設費、南北戦争費用、アメリカ産業の保護の費用に充てた。

この北部の産業の支援は最終T系には成功を収めた。リンカーン大統領の任期中にこの北部の製造業の州では南部のGDPに比べて10倍になった。北部はこの経済的な優位をもって武装し、南部を容易にまかすことができ、ほぼ全面的な封鎖をすることによって、南部から武器を取り上げ、と同時に、自分のすべての軍隊に対して、重い大砲から連射できるヘンリーライフルへと変更することができた。

南北戦争の勝利によって、共和党員は片方の民衆党員に対して優勢が保証された。共和党員は20世紀初頭までアメリカの政策を支配した。William McKinley大統領は共和党下でのアメリカ合衆国の立場を以下のように述べている。

「自由貿易のもとでは貿易業者は主人であり、生産者は奴隷だ。だから、保護貿易は自然の法であり、自己保存の法であり、自己開発のそれでもあり、民族の最も高位で、最善の運命を確保するための法である。保護貿易は不道徳だと言うが、それはなぜか。もし保護貿易が6,300万人を発展させ、高めることができるのであれば、この6,300万人は世界の人々を高めるための影響を与えることができる。さて、『あなたが買えることができるところで、最も安いものを買えばよい。』勿論、それは他のものと同様に、労働にも適用される。あなたに最大のものを与えよう。それはこれより1000倍も良いものだ。それは保護貿易による最大のメリットだ。『あなたが最も簡単に払えるところで買え。』そうすれば、地球のその場所が労働の報酬が最も高いところとなる。」



swingby_blog at 09:33コメント(0)トラックバック(0) 
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海野 恵一
1948年1月14日生

学歴:東京大学経済学部卒業

スウィングバイ株式会社
代表取締役社長

アクセンチュア株式会社代表取締役(2001-2002)
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海野塾のイベントはFacebookのTeamSwingbyを参照ください。 またスウィングバイは以下のところに引っ越しました。 スウィングバイ株式会社 〒108-0023 東京都港区芝浦4丁目2−22東京ベイビュウ803号 Tel: 080-9558-4352 Fax: 03-3452-6690 E-mail: clyde.unno@swingby.jp Facebook: https://www.facebook.com/clyde.unno 海野塾: https://www.facebook.com TeamSwingby
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