2009年11月25日

ゲオポリティク3

昨日は4時半に手術が終わり、ほっとした。今日退院だが、たいした手術ではないが、嫌なものだ。今日の午前中で、眼帯がとれるので、片目だけから解放される。本当の片目は結構見るのがつらい。片目の人は片目で慣れてしまえば、問題ないのだろうが、もう一方の目がいつつぶれるのかわからないと言う焦りから、私のように、読書熱が出るのだと思う。もしくは見ておきたいものを見ておこうと言う意欲が出てくるのかもしれない。

私の場合には勉強しようと言う意欲が昨年からすごかった。それがあって、早朝バイクもやめてしまった。昨日指摘した、昨年書いた地政学の記事もすごく長いのはそのためで、今でも良く書いたと思う。午前中に診察を受けてから退院なので、午後から仕事ができる。この病院には私のような眼底出血の患者の手術者が毎日 10人ぐらいいる。こう言う人がこんなにたくさんいることは知らなかった。先生も大変だ。さて、続けよう。ウィルヘルムの地政学の続きだ。

この集団の中では上から下まで影響力を持っている人がいないので、学者がより大きな社内の力を得るためにその代弁者として、つくしてきている。中央ヨー ロッパがヨーロッパ組織の中でドイツの力を再び主張する試みとして現れてきた。そして、ある意味で、オーストリアーハンガリーの巨大な計画よりもプロシアの小さなドイツとしての解決に陥る意思決定を拭い去ろうとするものでもあった。

ヨーロッパに於けるドイツの地位を守るために、多くのドイツ人は第一次世界大戦を単に防衛するための行動だと見ていて、包囲され孤立化した犠牲者として、そして、ヨーロッパの強国による襲撃に対して行動していると考えていた。
Europe_1914

Europe_1914

中央ヨーロッパ(: Central Europe: Mitteleuropa)は、ヨーロッパの中央部に位置し、西ヨーロッパ東ヨーロッパに挟まれた歴史的、文化的世界である。中欧とも。以下の国が代表的な現代中央ヨーロッパの国々である。

スイスを含めない分類、スロバキア・ハンガリーを含めない分類もある。ja.wikipedia.org/wiki/中央ヨーロッパ

第一次世界大戦前にドイツの民族主義的な感情が刺激され、Friedrich von Bernhardi将軍の著書である『ドイツと来るべき戦争』ではフランスの排除、中央ヨーロッパ連盟の創設、植民地取得を通じて、世界権力を掌握すると言うことを声だかに要求した。

Bernhardi(ベルンハルディ),Friedrich von(1886-1948)1898年から1901年まで参謀本部戦史部長を務めた。1912年に発表した『ドイツと来るべき戦争』(Deutschland und der nächste Krieg)は、欧州戦争を不可避として、それどころか必然としたことこから物議を醸し、外国では戦争を煽り立てる書物と見做された。 http://homepage3.nifty.com/akagaki/5-B1.html

第二帝国(ドイツ帝国 1871–1918)のプログラムの核心はフランスとロシアから危害の及ばないドイツの覇権の基で、経済が支配出来る中央ヨーロッパを作ることだった。このことは主に、中央アフリカに於ける植民地による拡大であった。ドイツ帝国主義はフランスとロシアの権力の脅威ばかりではなく、また、増大するアメリカの権力が、ドイ ツの基での中央ヨーロッパの統合へのより大きな原因となった。 Walther Rathenauの1912年の報告書によれば、中央アフリカと小アジアの資源はイギリスを武装解除したのちに拡大して行った。

ヴァルター・ラーテナウ(Walther Rathenau, 1867年9月29日1922年6月24日)は、ドイツ実業家政治家作家ヴァイマル共和国初期に外相を務め、ソビエト連邦ラパッロ条約を締結したが、極右テロ組織に暗殺された。ja.wikipedia.org/wiki/ヴァルター・ラーテナウ
Ac.rathenau

Ac.rathenau ドイツの外務大臣

小アジア Ásia Mínor:アジアの西端にあり、トルコの大半部を占める、地中海と黒海に挟まれた半島。アナトリア。

ドイツは中央ヨーロッパに向けた併合を継続した政策を誇示した。オーストリアーハンガリーとの関税同盟を中核として確立しようとし、小国はこれに追従することにならざるを得なくなった。これはRathenauとArthur von Gwinnerによって考えだされ、Theobald von Bethmann Hollwegによって後に承認され、首相の命令で、 Hans Delbrück and Johannes Bell がそれに続いた。

Theobald_von_Bethmann-Hollweg

Theobald_von_Bethmann-Hollweg 1909年から1917年までの首相で、論客である歴史家のFritz Fischerからは1914年のヒットラーと彼を呼んでいた。

中央ヨーロッパは本質的に政治的な理由で、実業家の抗議を押し込められてしまった。ドイツはより大きな貿易国と実際上、競合出来るようになる必要性があったので、このオーストリアーハンガリーでのドイツは輸入品に依存するだけではなく、追加の便益として、ドイツはオーストリアーハンガリーが崩壊しないのであれば、彼らに取って代わる地位を要求することになったである。

このことは Delbrückによれば、ドイツに彼らの国内マーケットに於ける保護主義を取り除かせ、国際マーケットの中で、侵略行為を行う方向に向かった。さらに、ドイツの指導者たちは彼らの価値観と文化の団結を広めようと言う願望を持っていて、事実上、アングロサクソンの世界ようなものを確立し、その文化は彼らの無敵艦隊以上のより重要な力として、考えられていた。

アングロサクソンの世界 Anglosphere アングロスフィア:英語圏のうち、自由や権利を保障する英米の基本法を支持し、同様の価値観や文化を形成している国々。英米のほか、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど。

本質的に彼らが求めていたものは自給自足の経済自立国家であり、輸入品に依存することから解放され、それは経済的な目標よりかは政治的、文化的なものを伴っていた。

ポーランド

ポーランドは西ヨーロッパのベルギー以上に東ヨーロッパでのドイツの帝国を設計する上での戦略的なかなめであった。1917年でさえ、ポーランドはドイツの衛星国として相変わらずの目標であったし、ドイツ経済に依存するオーストリアーハンガリーに対する願望を凌駕しさえしていた。Hollwegは1914年に政治舞台の中で、ポーランドに対して、国境縦断(フロンティア・ストリップ:アメリカ合衆国の中西部のことを言う。)政策をとった。ポーランドはロシアに対するドイツの戦略的な焦点となり、かってはドイツ人と住んでいたスラブ人に対する前線の防衛を果たした。戦略以上にドイツ人はドイツ人の民族主義者とともにその土地に移住すると言う「民族のミッション」を持っていて、そして、ポーランド人とユダら人をその土地から追放して、歴史的なプロイセンードイツのオストマルク政策のダイレクトな継承であった。

今日はこれまで。



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海野 恵一
1948年1月14日生

学歴:東京大学経済学部卒業

スウィングバイ株式会社
代表取締役社長

アクセンチュア株式会社代表取締役(2001-2002)
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