2009年11月26日
ゲオポリティク4
さて、京都議定書の温暖化から地政学のゲオポリティクに移行したので、マインドがなかなか温暖化から変化して行かない。読者もきっとそうに違いない。読者も研究会が陰謀なら来るが、もしくは温暖化なら来るがと言う方々がいる。このブログは「白人に勝つため」と言う前置きがある事忘れないでほしい。私は温暖化の専門家でもなければ、陰謀の理論家でもないし、プロイセンの歴史家でもない。だから、今日の中身のように、Polish questionって出てくるとなんだか戸惑ってしまう。調べてもなかなか出て来ない。日本語ではないのかもしれない。
私はベンチャー企業の経営者であり、日本のグローバリゼーションをなんとかしようとしている。 仕事も同じで、BPOを手段として、中国を利用して、グローバルレベルの仕事の効率に日本の企業を引き上げようとしている。そうした視点で、このゲオポリティクをよんでほしい。また時間が許せば、このドイツの時代背景を勉強してほしい。出来るだけ引用とか解説を付けるが、理解しきれないところもある。大きくテーマを変えたのは頭の切り替えにもなるからだ。では始めよう。
ブレスト・リトフスク条約後のポーランドの質問 Polish question に対する解答はオーストリアとともに解決することは出来なかったので、ドイツは本質的に「東部地域」(Ostraum)政策を支持して、純粋な中央ヨーロッパ計画を取り下げてしまった。
ポーランドの質問 Polish question:18世紀のポーランド分割の結果消滅していたポーランドの復活・独立のこと
http://www.answerbag.com/q_view/798492
ブレスト・リトフスク条約 Treaty of Brest-Litovsk:
第一次世界大戦末の1918年3月ソビエト新政権とドイ ツ・オーストリアおよびその同盟国とで締結した単独講和条約。国内復興を目指すレーニンらのソビエト新政権は連合国に和平を提案したが拒否されたため単独で講和したもの。ポーランド・ウクライナ・フィンランドの独立承認をともなうロシア領の四分の一、人口の三分の一や鉄・石炭などを提供して事実上の降伏であった。この条約はベルサイユ条約により無効となった。当時、ブレスト・リトフスクはポーランド領。第一次世界大戦の終結を促進する結果となった。
と言うのはポーランドはまだ、ウクライナ、ロシア並びに南東ヨーロッパの諸国に至る要地であった。これらの諸国はドイツの経済支配の目標であった。ドイツの東部地域の全体の併合がロシアによって拒否されたので、ドイツは小さな、自治権のある中間階層の国家の併合の考えを認め、それらはロシアの軍隊から自由で、経済的にドイツと提携することになった。オーストリアーハンガリーの問題は長期的で、親密な、政治的、軍事的、経済的な同盟で解決した。公式な中央ヨーロッパのかわりに、ドイツはその国境地帯の資源の豊かな地域に支配を進めた。それはフランス、ベルギー、ポーランドそして、オーストリアーハンガリーを事実上の従属関係にしようとした。このようにして、ドイツの中央ヨーロッパの中心部分は東スラブ諸国を経済支配するための願望であり、戦略の鍵としてポーランドにその中心の焦点を置いた。
経済
帝国のドイツの経済は国内を本拠地としたマーケットから植民地の国際貿易まで様々であった。ビスマルクは1867年から1878年まで、自由貿易を放棄して、重工業と大規模農業に対して、民族主義的な関税保護主義を支持した。しかしながら、ウィルヘルム政策の中心は新しい艦隊の建造になった。すなわち、シー・パワーが強国の地位を得るためのキーであり、世界中の既存の植民地に向けての修正主義者の目を持っていた。
修正主義(revisionism):マルクス主義の枠内で思想の原則に修正を加え、革命ではなく社会の安定を優先する社会主義の一傾向をいう。この傾向は社会民主主義へとつながった。
ja.wikipedia.org/wiki/修正主義
まだ、ドイツは重商主義経済政策を追求していて、国家は大きな産業への支援、市場への介入、公共財の国有化を進めた。
重商主義(mercantilism):国家の産業として商業を特に重要視した経済思想および経済政策の総称。大航海時代、アメリカ大陸やインド・東南アジアへの西欧の到達と直接交易の開始が貴金属や香辛料など稀少商品の価格革命をもたらし、商業革命のパトロン(援助者・免許者)としての王権に莫大な富をもたらした。オランダ、イギリス、フランスの各東インド会社は植民地政策の重要な尖兵となっただけでなく、有限責任方式の開発など市民社会形成に重要な足跡を残し、のちの産業革命をもたらした。ja.wikipedia.org/wiki/重商主義
ルドルフ・チェレン(Rudolph Kjellén)は中央ヨーロッパに経済同盟を求め、1914年以前の多くのドイツ人によって支持された世論である、ドイツ植民地の拡張がその目的であった。
しかしながら、経済成長によってイギリスとの対立が激しくなり、それはこの帝国に開かれた明確な2つの道があった。英国との海軍の対立もしくはヨーロッパの中の領土の拡張。ドイツの産業は政治的な独立を要求し、それは世界政治の中でのイギリスの覇権であり、ロシアの影響の遮断であり、彼らの資源のためのドイツ国境地帯の弱小国の併合であった。しかし、イギリスとの従属関係を断ち切るためにはドイツは強力な海運力を必要としたが、ウィルヘルムの目的にもかかわらず、ドイツは持っていなかった。中途半端なやり方ではあったが、ドイツはイタリアとの同盟を追求するべきであると認識し、イギリスの勢力に対抗するために、地中海に於いて、その海軍の強化を促進した。
今日はここまでで、ここで、ウィルへルムの地政学は終了し、明日からはいよいよ、フリードリッヒ・ラッツェル、ルドルフ・チェレン、カール・ハウスホーファーのそれぞれの理論に入って行く。地政学らしくなって行く。ドイツの地政学なので、アメリカのマハンのシーパワー理論とかイギリスのマッキンダーの理論、スパイクマンのリムランド理論はこの項では扱わず、別途もう一つ地政学をこの次に行う予定だ。この地政学はブログで扱うようなテーマではないが、日本人の一番弱い部分で、グローバリゼーションの勉強には必須科目だ。2009年1月29日の「地政学上での周辺国」の中の地政学10ヶ条を是非熟読してほしい。日本人の文化、文明にはない。