2009年09月

2009年09月20日

陰謀の理論の一覧表6

連休初日は大忙しで、あっという間に終わってしまった。オークションで、ロードバイクをやっと落札できたのだが、引き取りにいく場所が熊谷なので、どうしようか困っている。乗っていないので、大きさが合わないかもしれないと言うことだ。今日は日曜日なので、インラインに行けそうだ。台風が来ると言っていたが、どこかに行っちゃったようだ。陰謀の一覧表は翻訳よりも、たくさんの事例が出てくるので、それを引用するのが多くて、読む方は大変だが、仕方がない。日本人が知っているようなものもあれば、知らないものも多い。古い事故もあるので、思い出してほしい。引用情報は出来るだけ中立なものを選んでいるが、ウィキペディア以外のものは引用先を表示するようにしているので、更に勉強したい人はそっちを見てほしい。こうした陰謀説は調べるときりがない。さて始めよう。

何件かの死因は公式的には事故、自殺、自然死として記録されているが、いくつかは陰謀説の対象である。その例として、1997年のDiana, Princess of WalesとDodi Fayedの車の事故死、1999年のJohn F. Kennedy Jr.の飛行機事故、2002年の上院議員Paul Wellstoneの飛行機事故。

Diana, Princess of WalesとDodi Fayedの車の事故死:日本のメディアでも、たびたびダイアナ暗殺説が取りあげられている。メルセデスに接触したという不審なフィアット・ウーノの存在、目がくらむほどの白い閃光がトンネル内にほとばしったという目撃情報、後部座席のエアバッ グが横から飛び出していなかったなど、謀殺説を裏付けるような奇怪な情報は数々存在する。
そしてきわめつけは、検死の結果、ドライバーの血液中から許容量の3倍のアルコールが検出されたというもの。実際問題、それだけのアルコールを摂取して いれば、泥酔して普通に歩くことができないはず。ドディとダイアナが、そんなドライバーの状態に気づかないということはあるだろうか。よほど信頼していたとしても、果たしてそんな酔っぱらいにハンドルを握らせるだろうか。
仮に、ラブラブ状態だった後部座席の二人が色ボケしていて気づかなかったとしても、そもそも泥酔していたら猛スピードなんか出せやしない。ノロノロ運転 か蛇行運転になるのが普通で、パパラッツィを振り切ることは不可能に近いのではないだろうか。テレビ朝日のビートたけしの番組では、「ドライバは酔ってなどおらず、死後、アルコールを直接注射されたのでは」という疑惑が紹介されていた。
では、なぜダイアナは暗殺されたと言われるのか。それは、ドディ・アルファイド氏がエジプト人で、イスラム教徒だったからだ。父親は武器商人で、ハロッズやホテル・リッツのオーナーとなった成り上がり者である。つまり、ダイアナがドディと結婚すれば、将来のイギリス国王の義父はエジプト人ということになる。イスラムの戒律ではダイアナも改宗しなければ結婚は認められないだろうから、そうしたら国王の母も異教徒ということになる。
しかもこのとき、ダイアナはドディの子を身ごもっていたと噂されている。二人の間に子どもが生まれれば、国王の異父兄弟がイスラム教徒という事態となっ てしまう。これらのことは、キリスト教国家であるイギリスにとっては大変な大問題だった。そこで、王室の内意を受けてか否かは定かでないが、イギリス情報 局秘密情報部(MI6)が動いたと噂されているのである。

事故のあった夜、ドディはプロポーズするため購入しておいた30万ドルのダイヤの指輪を、シャンゼリゼにあるアパルトマンに置いてあったという。事故は、ドディの父親がオーナーを務めるホテル・リッツから、そのアパルトマンに向かう途中に起こった。
パパラッツィを振り切るためか、コンコルド広場からシャンゼリゼまで直線ですぐだったにもかかわらず、わざわざセーヌ川沿いの道路を通って遠回りしようとしている。
これから正式なプロポーズがされようとする夜に事故死というのも、状況証拠のひとつかもしれない。暗殺を決行するにはこの日をおいて他にないというくらい、絶妙なタイミングだった。
二人がイタリア・サルディーニャ島からチャーター機でパリ入りしたのは、8月30日。事故があったのは日付が変わった未明のこと。となれば、車が人目につきにくいトンネルに入ったこの瞬間は、まさに絶好にして最後のチャンスだったかもしれない。http://www.dokodemo-bessou.com/france/diana/diana.htm

John F. Kennedy Jr.の飛行機事故:この事故は一部のメディアでは、大統領に当選した際に、父の死の真相を明かすことを防ぐための暗殺であるとうわさされた。以下のことがこのような陰謀論の根拠になっている。
    1.    300時間の飛行時間は商業用パイロットのライセンスを取得できるくらいの経験である。
    2.    ケネディの操縦は慎重だったらしい。
    3.    フライトインストラクターはいつも必ず同乗していた。
    4.    FAAの統計によると、飛行1000時間のパイロットより飛行300時間のパイロットの方がより慎重で安全であることが示されている。
    5.    天気も視界が悪いとされていたが、その時刻の衛星写真によると視界は良さそう。
    6.    マーサズヴィニヤード空港は視界が悪いとされているが、新しく取り付けれた明かりは、住民から明るすぎると苦情が来るくらい良く見えるはずであった。
    7.    アダムバッドが午後10時にFAAへ連絡。
    8.    家族が午後10時半と11時に湾岸警備隊に電話連絡
    9.    ケネディー上院議員が真夜中に電話連絡。
    10.    N-Tapの結果が紛失
    11.    マーサズヴィニヤード空港の連絡記録が紛失
    12.    飛行計画も紛失
    13.    高度の異常に低い飛行機があると予め警告されるので本来なら5分後に捜索が始まるところ、15時間半後に行われた。
    14.    捜索開始後も平和時にも拘らず、ペンタゴンにより捜索が指揮され、N-TapやELT(Emergency Locator Transnmitter/ビーコン)と衛星より落ちた場所が30cm以内で特定できるのに約160km離れた全く別の場所が捜索された。ABC放送も場 所を特定した映像を放映しているので、ビーコンは作動していた。
    15.    フライトレコーダーの最後の記録が紛失
    16.    袋が無傷のまま発見されその中にあるはずの搭乗員等記録されているログブック紛失
    17.    爆破の目撃者が居たが、その後花火と言い出し、行方不明となる。

上院議員Paul Wellstoneの飛行機事故:ブッシュ家周辺では、飛行機事故で関係者が死亡するケースが過去に少なくとも3度ある。1991年、ブッシュ父が関与したイラン・コントラ事件の調査に関わっていたジョン・ハインツ議員とジョン・タワー議員はいずれも飛行機事故で死亡。2002年には、ブッシュ家の政敵の一人で、イラク戦争に強く反対していたミネソタ州民主党上院議員ポール・ウェルストーンが、中間選挙投票日直前に飛行機事故で死亡し、ブッシュ側が推薦した共和党候補が勝利するという事態が発生している。

他の例として、大統領次席法律顧問Vincent Fosterの自殺、アメリカ合衆国商務長官Ron Brownの飛行機事故、Mayerling Incidentというオーストリア皇太子ルドルフの怪死事件、Zachary Taylor、Lyndon B. Johnson,、Władysław Sikorski,James Forrestal達のアメリカ大統領の死、イギリスの政治家のリーダーHugh Gaitskell、オーストラリアの首相Harold Holt、James P. Brady、ニュージーランドの首相Norman Kirk,、Jimmy Hoffa、David Kelly。また、名士の若死にについても陰謀説がある。Marilyn Monroe, Sam Cooke, Brian Jones, Jimi Hendrix, Janis Joplin, Jim Morrison, Elvis Presley, Bob Marley, John Lennon, Kurt Cobain, The Notorious B.I.G., Tupac Shakur, Anna Nicole Smith, Heath Ledger、最近ではMichael Jackson.


大統領次席法律顧問Vincent Fosterの自殺:ビンス・フォスター(Vince Foster、1945年1月15日 - 1993年7月20日)は、アメリカ合衆国の弁護士、後にクリントン政権の大統領次席法律顧問 (Deputy White House Counsel) 。アーカンソー州ホープで生まれ育つ。ビル・クリントン前大統領が4歳まで過ごした祖父母の家の裏庭がビンスの家の裏庭と隣合わせていて、2人は幼馴染 だった。アーカンソー大学で学んだビンスはアーカンソー州弁護士試験にトップで合格し、後にヒラリー・クリントンが働くことになるアーカンソー州リトル ロックのローズ法律事務所に入りパートナーとなった。ビルの政治活動の支持者であり、またヒラリーの親友だった。
1993年クリントン政権の大統領次席法律顧問に任命されるが、同年ヴァージニア州のフォート・マーシー公園でコルト銃を手に死んでいるところが発見され た(後の司法省などの調査では自殺とされた)。その後、ビンスの死んだ晩、上司で大統領法律顧問のナスバウムが、リトルロック時代のビルとヒラリーの弁護 士を努めていたビンスが保有していたホワイトウォーターに関連のあるファイルをビンスのオフィスから持ち出していたことが分かったため、ホワイトウォー ター疑惑の隠蔽のために殺されたのではという噂が流れた。

Ron Brownの飛行機事故:ウィキペディアでは1996年4月3日の公式な貿易ミッションで、CroatiaのDubrovnik 飛行場に墜落したと言っている。これはパイロットの操縦ミスと言う結果であったとされていている。ここでは陰謀説の言及はなかった。彼が殺されたと言う記事はいくつかあったが、ここで陰謀説として取り上げるほどの信憑性はない。自動翻訳のこうした記事の詳細が2件あったが、訳そのものが全く理解できなく、原典も明示されていなかったので、引用できなかった。

Mayerling Incidentというオーストリア皇太子ルドルフの怪死事件:ルドルフ(Kronprinz Rudolf, 1858年8月21日 - 1889年1月30日)は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とその皇后エリーザベトの子で皇太子。ハプスブルク家の世継ぎとして周囲に期待されたが、父帝との反目や政治的対立などから孤立し、男爵令嬢マリー・ヴェッツェラと「マイヤーリング事件」にて謎の死を遂げた。皇太子の死の真実は、今もなお、謎に包まれている。

事件から94年後、1983年3月11日、63年の亡命生活に終止符を打ちウィーンに戻った最後の皇后ツィタは、ルドルフの死が情死ではなく、暗殺によるものだという衝撃的な告白を、ウィーンの大衆向けタブロイド紙『クローネン・ツァイトゥング』に行った。ツィタの夫は最後の皇帝カール1世だが、彼はフランツ・ヨーゼフ1世に暗殺の証拠をあげられ、真相を解明するように言われたが、第一次世界大戦勃発によりうやむやになってしまっていたのだ。ツィタは次のように語る。
  1. 事件の直後、緘口令がひかれたのは、暗殺と知りながらも事件に政府の要人が関係しているため、政治的波及を懸念したからである。
  2. 皇太子の葬儀許可を教皇に打電したところ、教皇は拒否の返電を送った。しかし、皇帝が2回目に2千語もの暗殺電報を打電して説明すると、たちどころに許可が下りた。
  3. マイヤーリング近く在住の家具職人が、事件の2日後に室内の片付けを命じられたとき、家具がひっくり返されており、激しい争いの跡が見られ、壁にも弾痕・血痕の跡が著しくあり、銃声は言われるように2発ではなかった。
  4. 皇帝カールの義妹ルートヴィヒ大公妃が、ルドルフの遺骸を見たことを語り、「皇太子は黒い手袋をしていました。軍服なら白い手袋のはずです。しかも、黒い手袋のなかには綿がつまっていました。ルドルフの手が利かなくなっていたようです。」と証言した。
  5. 母后エリーザベトの兄、ブルボン・パルマ公は、「現場に駆けつけた当局者の話によると、皇太子の右手は手首からサーベルで切断されていた」と語った。

ツィタはこのように語ったが、真相は謎のままである。

Zachary Taylor:

ザカリー・テイラー(Zachary Taylor, 1784年11月24日 - 1850年7月9日)は、第12代アメリカ合衆国大統領

在職中に死去した2人目の大統領である。また在任中に死亡した歴代大統領8人の内、20で割り切れない年に選出された(いわゆるテカムセの呪いTecumseh's curseとは関係なく死亡した)唯一の大統領でもある。「オールド・ラフ・アンド・レディ」(老暴れん坊)として知られていた。(なお日本語では「ザカリー」と表記されることが多いが、英語の発音は「ザッカリー」である。)

1808年に中尉としての任務から始まり、米英戦争1812年 - 1815年)、ブラック・ホーク戦争1832年)および第二次セミノール戦争1835年 - 1842年)と相次いで戦った。これらの戦争でテイラーはインディアンを次々と「虐殺する」という戦功を上げ、その都度昇進を重ねた。

1850年7月4日ワシントン・モニュメントでの式典参加後に、テイラーは病気になった。当日は猛暑で、テイラーはキュウリ(さくらんぼとの説もあり)と牛乳を摂りすぎて体調を崩し、五日後に重度の消化不良で死去した。大統領就任の十六ヶ月後であった。彼はケンタッキー州ルイビルに埋葬された。

当初、その死については砒素による毒殺説が根強く、もしもこれが事実であれば、テイラーはエイブラハム・リンカーンに先んじること15年、アメリカ史上初の暗殺された大統領となるところであったが、遥か後年、1991年に至り遺体の学術調査が行なわれた結果、コレラ説が有力となり、その可能性は否定された。

テカムセの呪いTecumseh's curse:

Lyndon B. Johnson:

リンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson, LBJ, 1908年8月27日 - 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国の第37代副大統領および第36代大統領。ケネディ政権の副大統領を務め、ケネディの暗殺の直後に政権を引き継いだ大統領。リベラルとして知られたケネディと対照的に、ジョンソンは民主党の中では保守的な人物として知られたが、公民権運動に対しては深い理解を示し、公民権法の早急な施行に向けて議会をまとめるなど積極的に貢献した。

国内政策の政治力ではフランクリン・ルーズベルトと並ぶ敏腕大統領であり、公民権法の施行を推進し非白色人種の差別是正に貢献したものの、対外的にはベトナム戦争に深く介入し国内の反戦運動の激化と世論の分裂を招いた。

ジョン・F・ケネディの暗殺をジョンソンが首謀していたと主張する陰謀論が存在する。暗殺当時ケネディは個人秘書官イーヴリン・リンカーンを含む親友に、ジョンソンが少なくとも4件の犯罪捜査に関与していたことから1964年の大統領選でジョンソンを入れ替えて別の人物を彼の副大統領候補にすることを考えていたことを語っている。

この陰謀説を元に、映画監督オリバー・ストーン は映画『JFK』でジョンソンが、暗殺犯マック・ウォレスを使いケネディ大統領を暗殺した首謀者であると描いた。また2005年11月、ジョンソンの元顧問弁護士バー・マクレランが『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』という本を書き、ジョンソン真犯人説を発表した。

なおケネディ暗殺後にエアフォースワン内部で宣誓式を終えたジョンソンは、カメラマンから多くの写真を撮られているが、その中の一枚にはカメラマン の反対側に顔を向けた彼が写っており、斜め後ろから写された彼の左の横顔には笑みが浮かんでいるように写っている上に、旧友のアルバート・トマス下院議員 にウインクしているように見えた。この写真は誤解を招くことを懸念して直後に一般公開されなかった(後に公開された)。








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2009年09月19日

陰謀の理論の一覧表5-2

引用が長くなったので、今日は2つに分けた。

Yitzhak Rabin イツハク・ラビン(1922―95):イスラエルの軍人、政治家。エルサレムに生まれ、カドーリー農業学校卒業。1940年ユダヤ人自衛組織ハガナのゲリラ部隊パルマッハに参加し、44年以降イギリス委任統治政府に対する地下抵抗運動を行う。47年パルマッハ副司令官となり、48年の独立戦争ではエルサレム戦線を指揮した。49年ロードス島での休戦交渉ではイスラエル代表団の一員。53年イギリス陸軍大学卒業。北部方面司令官、参謀次長を経て、64年参謀総長に就任し、67年の第三次中東戦争で イスラエル軍を指揮した。68年に退役してから73年まで駐米大使。その後、連合党から国会議員に当選し、74年3月ゴルダ・メイア内閣の労相に就任。 74年5月〜77年4月労働党党首。また、74年5月〜77年6月首相。92年より再び首相、中東和平への貢献で94年ノーベル平和賞受賞。95年テル・アビブで開かれた中東和平集会の際にユダヤ人青年によって暗殺された。 和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルに至近距離より銃撃され死亡した。ラビン殺害の理由について「神の律法によれば、ユダヤ人の土地を敵に渡してしまう者は殺すべきことになっている」と語った。なお、ユダヤ人がユダヤ人を殺すことは、ハラハーでは禁じられている。

Alexander Litvinenko アレクサンドル・ヴァルテラヴィチ・リトビネンコ(1962年8月30日 - 2006年11月23日) は、ソ連国家保安委員会(KGB)ロシア連邦保安庁(FSB) の職員だったロシアの人物。当時の階級は中佐。後にイギリスに亡命しロシアに対する反体制活動家ライターとなった。2006年、何者かに毒殺された。死の直前にイスラム教に改宗している。
1998年11月、局の同僚7人と共に記者会見を開き、1997年11月に局長で少将のエフゲニー・ホホリコフと大佐のアレクサンドル・カムイシュニコフの二人に、ボリス・ベレゾフスキーとミハイル・トレパシュキンの暗殺を口頭で指示されたが、命令を拒否したと発表した。また彼は、FSBの一部幹部職員が政治的脅迫や契約殺人(つまり殺し屋)などの犯罪活動にFSBを利用していると告発した。それ以来、彼は脅迫を受けるようになった。ウラジーミル・プーチンは当時、FSB長官を務めていた。
このベレゾフスキー氏。ソ連でペレストロイカの経済自由化が行われたときにビジネスを始め、新興財閥に成り上がったいわゆる「オリガルヒ」と呼ばれる資本 家の代表格。2000年3月の大統領選挙では、プーチンを支持したが、大統領となったプーチンは、逆に新興財閥の影響力を削ぎにかかる。それまで影で政権 を牛耳っていたベレゾフスキー氏は、反プーチン勢力の結集をはかったが、一般国民の間では評判が悪かったため孤立化した。このため下院議員辞職に追い込ま れ、さらにロシア最高検察庁からアエロフロート資金の横領疑惑などを追及されたため、国外脱出した。http://shopworld.cocolog- nifty.com/blog/2007/07/post_8291.html

Benazir Bhutto ベナジル・ブット(1953―2007)パキスタンの政治家。ブットーともいう。シンド州北部ラルカーナー県の大地主の家系で、祖父の代から政界でも有名なブット家に、父ブット(ズルフィカール・アリー)、母ヌスラットの長女として生まれ、ハーバード大学およびオックスフォード大学政治学・国際関係を学んだ。連邦政府首相の父が1977年の軍部クーデターで投獄、79年に処刑されてからは、母とともにパキスタン人民党(PPP)共同議長としてジアー・ウル・ハック軍事政権と対決して反軍政シンボルとなり、同時に投獄・軟禁・亡命生活を強いられた。1988年の民政回復後の総選挙では、「イスラム社会主義」の看板を下ろして中道政党に転換した人民党が第一党となり、世界で最年少、イスラム圏で最初の女性首相となったが、軍部の意に沿う大統領によって1990年に解任、さらに93年総選挙で返り咲いたものの96年に再度解任された。どの政権担当期も連立内閣で政策実績に乏しいうえ、実業家の夫アーシフ・ザルダーリーの不正行為を含めて腐敗が目だち、下野後職務責任追及の矢面に立たされた。1997年総選挙で政敵ナワーズ・シャリーフのパキスタン・ムスリム連盟に大敗を喫した。その後、首相在任中の汚職等に関する訴追を逃れるため、家族とともにアラブ首長国連邦ドバイに亡命した。2007年10月、パキスタンの大統領令により訴追が免除される方向となったのを受け帰国した。彼女をねらった爆破テロの発生、また一時軟禁されるなどの事態となったが政治活動を再開、同年12月27日に翌年の総選挙に向けた集会で演説を終えた直後に暗殺された。2007年12月27日、イスラマバード郊外のラーワルピンディーで選挙集会に参加中、イスラム原理主義者と思われるテロリストの銃撃と自爆テロにより暗殺(54歳)された。自爆テロにより、集会現場に居合わせた支持者や警官にも20名程度の死者が出た。
太田述正は、自身のブログで、ブットーは封建的で腐敗した汚職政治家と断じている。また、その中で引用されている英国オブザーバー紙のイギリスの著名歴史学者ダリンプルの記事でも、太田述正と同様の見方をしており、更に英語はよどみなく話せても母国語のはずのウルドゥ語シンド語を正確に話せない「欧米向け政治家」と断じている。 英文の名前以外はすべて引用。

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陰謀の理論の一覧表5

今日から5連休だ。まとまった時間が取れる。生活のパターンは変えない。バイクの競技を止めたので、こんどは自転車を始めようと考えている。インラインスケートはエネルギーの消耗が激しいので、日曜日だけだ。このブログは朝の制約が多少緩いので、もう少し書けるかもしれない。長過ぎてうんざりだと言うコメントがまた来そうなので、気をつけよう。さて、今日は暗殺の続きだな。この暗殺はこの論文ではその説明が全くないので、日本語の引用がたくさん出てくるので量がどうしても多くなるが、それは仕方がない。

こうした陰謀説の証拠にはしばしば、個人とか政府の機関の反応があるのだが、そうした公式な調査を行うにあたって、バイアスのかかった委員会が作られたりして来た。「誰に利益があるのか?」という質問もまた、しばしばされて来た。陰謀説を唱える人たちはその暗殺が本流の社会に起因するよりかは内部の人たちの方がしばしば、遥かに強い動機を持っていると主張している。こうした昔の暗殺の事例として Abraham Lincolnとかオーストリアの Archduke Franz Ferdinandに対する陰謀説がある。

Abraham Lincoln:1865年4月14日フォード劇場で「Our American Cousin」(イギリス貴族遺産相続にアメリカ人の甥がからむ喜劇)という現代劇を妻メアリー・トッド、従者・チャールズ・フォーブスとヘンリー・ラスボーン少佐、少佐のフィアンセのクララを伴って観劇中、北軍のメリーランド州出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブースに1.2mの至近距離から拳銃で後頭部左耳後5cmを1発撃たれた。ブースはラテン語: "Sic semper tyrannis!"(専制者は常にこのように。当時の直訳英語: "Thus always to tyrants,"バージニア州のモットー)と叫び("The south is avenged!" 「南部は復讐される!」と叫んだとする説もある)、ラスボーン少佐がとびかかるもナイフで腕を切られ振り払われ、バルコニーから階下にジャンプし脚を折った。狙撃時刻はPM10時13分またはPM11時17分の2説ある。 ほぼ同じ時刻に、国務長官ウィリアム・スワードやその息子の国務次官補フレデリック・スワードも自邸でルイス・パウエルに襲われ負傷したが、命を取り留めた。 共謀者は、リンカーンとともにワシントンに帰還したグラント将 軍の他多数の政府高官を同時に殺害することを計画していた。しかし、グラント将軍夫妻は当日夕方に観劇を中止しており、実行されたのはリンカーンの暗殺だ けであった。ブースは、足を引きずりどうにか用意した馬に乗って逃走した。致命傷を負った大統領は通りの向かいの民宿、ピーターセンハウスに運ばれた。し ばらくの昏睡の後、1865年4月15日午前7時21分にリンカーンの死亡が宣告された。

Archduke Franz Ferdinand オーストリア皇太子フランツ・フェルディ ナント大公:サラエヴォ事件(サラエヴォじけん、サラエボ事件サライェヴォ事件)とは、1914年6月28日オーストリア=ハンガリー帝国皇帝国王の継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、サラエヴォ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。この事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。この事件も長い内容だがとりあえずここまで。以上引用。

デンマークのエーリク5世のように歴史上の人物の暗殺は相変わらず陰謀説のテーマである。

エーリク5世 (1249?-1286) (在位1259-1286):デンマークの王。クリストファー1世の子、ヴァルデマー2世の孫。ドイツの宮廷で育つ。祖父ヴァルデマー2世の死後、国内の有力者の影響が高まり、エーリク5世は王権の強化を図るも失敗し、逆にデンマーク版マグナ・カルタ『王の誓約』を受諾させられることとなった。のち1286年に辺境地の貴族によって暗殺された。(参考文献:山川出版社『北欧史』) http://shirayuki.web.infoseek.co.jp/txt/NorthEurope.html

1286年にデンマーク貴族の出身の有能な将軍スティグ・アンデルション(アナセンと読むのだと思われ・・・)が、その職を罷免されたのを恨んで、時の王エーリク5世を暗殺してノルウェー南部に逃げる. http://hr-mdm.jugem.jp/?eid=175 以上引用。

まだまだ多くの事例がある。
Sheikh Mujibur Rahman ムジブル・ラフマン:独立時のバングラデシュは、9ヶ月におよぶ内戦のために混乱していた。パキスタン政府とその支持者は各地で虐殺を行っていたとされる。ムジブル・ラ フマンは排他的な政策によって秩序を回復しようとしたが、事態は改善されなかった。ラフマンは戒厳令を宣言し、自ら大統領就任を宣言し、新たに組織された ばかりのバングラデシュ・クリシャク・スラミーク・アワミ連盟を除くすべての政党の解党を命令した。しかし国政は改善せず、飢餓と疾病が広がっていった。

1975年8月15日、シェイク・ムジブル・ラフマンは家族とともに陸軍部隊によりダッカで殺害された。後任として、前商業・土地収益大臣であったカンデカル・モシュタク・アーメッドが就任した。アーメッドはラフマンの暗殺を計画したひとりであった。1996年2001年2009年1月6日〜、ラフマンの娘にあたるシェイク・ハシナが、バングラデシュの首相に選ばれ、就任した。

Carrero Blanco カレロ・ブランコ(1903―73):スペイン海軍提督、首相。1940年ファランヘ党幹部として政界に入り、国会副議長、副首相などを歴任し、1966年提督に昇進。1973年、王政復古に向け、独裁体制の緩和のため、フランコ総統の首相兼務が廃されたのに伴い、同年6月首相に任命された。忠実なフランコ信奉者として知られ、体制緩和への軍部の不満を抑えるため起用されたが、反体制派からはフランコの後継者と目されたため、同年12月、バスク民族運動の過激派ETAのテロ活動により、マドリードの路上で爆殺された。

Benigno Aquino, Jr. ベニグノ アキノ(1932―83):フィリピンの政治家。ルソン島タルラク州出身。1950年アテネオ・デ・マニラ大学を中退し、マニラ・タイムズに入社。1955年政界に進出。タルラク州を経て、1967年上院議員に当選。野党リベラル党幹事長として1971年中間選挙で同党の大躍進を実現した。1973年の大統領選挙ではマルコス大統領の強敵とみられていたが、1972年戒厳令発布と同時に逮捕され、1977年11月軍事法廷で死刑を宣せられた。1980年5月心臓病手術の名目で出獄、渡米を許され、アメリカでマルコス独裁反対運動を続けたが、1983年8月21日帰国直後マニラ空港で暗殺された。その後、妻のコラソン(1933―2009)が反マルコスの象徴的存在となり、1985年末からの大統領選挙に出馬、1986年2月政権を獲得した。

Olof Palme オロフ・パルメ(1927―86) :スウェーデンの政治家。ストックホルム生まれ。ストックホルム大学、アメリカのオハイオ州立大学法学を専攻。1949年社会民主労働者党に入党。学生運動の指導的役割を果たす。54年首相エルランデルの個人秘書を務め、57年から国会議員。63〜65年顧問大臣。65〜67年運輸相、67〜69年教育相を経て、69年エルランデルの後任として党議長および首相に就任。68年教育相時代にはベトナム反戦デモに参加し、物議をかもした。76年総選挙で核エネルギー開発反対を掲げる中央党を 中心とする保守連合に敗退。81年結成された国連の「軍縮と安全保障問題に関する独立委員会」(パルメ委員会)の委員長となる。同年末来日して広島を訪れ た。82年総選挙でふたたび政権に復帰。在任中の86年2月28日深夜ストックホルムの路上で凶弾に倒れた。米ソに距離をおく中立主義の路線を堅持し、一 貫して核軍縮と国際平和を訴えた。尚、事件後に容疑者としてスウェーデン生まれの変質者であるクリステル・ペターションが逮捕され、裁判で終身刑を受けるものの2004年に死亡した(又、ソ連国家保安委員会(KGB)が事前に掴んでいた可能性があるとスウェーデンの新聞等で報じられたがKGBはこれを否定した)。







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2009年09月18日

陰謀の理論の一覧表4

最近、引用が多いので、引用がわかるようにした。また、訳文は出来るだけ読み易いように、意訳を心がけるようにした。原文を意識しすぎると、どうしても日本語がぎこちなくなってしまう。今日は昨日の戦争の続きから始める。早いもので、今日も6時から経営研修があるので、いつもより、終了が早い。では始めよう。出だしから、なるほどと言う文章が始まるので、少し回りくどい言い方だが、よく読んでほしい。

近年、湾岸戦争、イラクへの侵略のような中近東への戦争は石油のための戦争だと言われてきた。多くの場合、評論家がアメリカを責めてきたのはそれが武力政治であり、原理とか道徳に関心を払わず、政治活動を人を馬鹿にしたような感覚で行ってきたからだ。経済的な利益を求めた戦争は秘密の陰謀の従来からの意味からすると陰謀と考えられ、とくに、一般大衆が戦争の嘘の口実を告げられているときがそうである。現行の政府が困難な問題に直面しているときに、選挙の戦術として、国民からそれに対する目をそらすための完全な方法が戦争であると言われてきた。この仮説が映画「ワグ・ザ・ドッグ」とGeorge Orwellの小説「1984」の基礎になっている。

Wag the Dog(ワグ・ザ・ドッグ):再選を狙う大統領が、ホワイトハウスの執務室でガールスカウトの少女にイタズラした。これがマスコミに発覚し、選挙を2週間後に控えた大統領のスタッフは 騒然。そこに現われたのが、「ホワイトハウスの黒幕」の異名をとる揉み消し屋のコンラッド・ブリーン。広報官のエームス女史とロサンゼルスへ飛んだ彼は、 ハリウッドのプロデューサー、スタンリー・モッツを訪問。「アルバニアのテロリストがアメリカに核攻撃を仕掛けてくる」というシナリオに沿って、戦争をでっちあげてくれと依頼する。モッツはさっそく流行仕掛け人のファド・キングや、キャンペーン・ソング作家のジョニーらを召集し、戦争の演出に燃え る・・・。本作は、米クリントン大統領のセックス・スキャンダルと時を同じくして公開となり、一躍注目を浴びた作品だ。この放映の頃(1998年12月17日)に米英軍のイラクに対する第一次攻撃(Desert Fox作戦)が開始された。

1984:トマス・モア『ユートピア』、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、ザミャーチン『われら』、ハクスリー『すばらしい新世界』などのディストピア(反ユートピア)小説の系譜を引く作品で、スターリン体制下のソ連を連想させる全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている。なお、著者などは言及していないが「1984年」という年号は、本作が執筆された1948年の4と8を入れ替えたアナグラムであるという説が一般的である。これによって、当時の世界情勢そのものへの危惧を暗に示したものとなっている。
1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョンによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。
ロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。また、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジューリアと共に過ごした。さらにウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライアンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。
ところが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、オブライエンによる尋問と拷問を受けることになる。彼は「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、心から党を愛しながら処刑(銃殺)されるのであった。
以上引用。

このことがフォークランド紛争の背後にある動機になったと言う人もいる。

Falklands War フォークランド紛争(Falklands Conflict/Crisis)とは、イギリス領フォークランド諸島(スペイン語名/アルゼンチン名: マルビーナス諸島)の領有を巡り、イギリスとアルゼンチン間で3ヶ月にわたって行われた紛争である。スペイン語ではマルビーナス戦争と表記されることが多い。
1976年にイサベル・ペロンを追放して誕生したホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍の軍事政権は、それまでよりも弾圧の姿勢を強めてCIAの指導やパナマの米州学校 (SoA)での教育を背景にしてペロニスタや左翼を徹底的に弾圧し、この「汚い戦争」で8,000人から30,000人が「行方不明」になったといわれる。そして経済状況が一向に改善しないにもかかわらず、こういった政争に明け暮れる政権に対して民衆の不満はいよいよ頂点に達しようとしていた。
軍事政権は、当初よりしばしばフォークランド諸島に対する軍事行動をちらつかせてはいたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。だが、かかる状況下で軍事政権を引き継いだレオポルド・ガルチェリ大統領(現役工兵中将でもあった)は、民衆の不満をそらすために必然的ともいえる選択肢を選んだ。既にアルゼンチンの活動家が上陸して主権を宣言するなどの事件も起きており、フォークランド諸島問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしたのである。
アルゼンチンでは、ガルチェリ大統領が建国以来はじめての敗戦の責任を問われて大統領及び陸軍総司令官を辞任し、失脚した。退役陸軍中将のレイナル ド・ビニョーネが大統領に就任したが、戦争初期は軍とペロニスタも挙国一致の下に和解し、「海賊英国」「ガルチェリ万歳」を連呼していたアルゼンチン国民 も、この敗戦にかつてないほどの反軍感情を高まらせ、すぐに急進党(旧急進党人民派の流れを汲む)のラウル・アルフォンシンに政権交代が行われて民政移管が完了した。ガルチェリは銃殺刑に値すると言われたが、結果的には懲役12年で済み、ビデラなどの他の軍人と共に1990年に軍と取り引きしたカルロス・メネム大統領の特別恩赦によって釈放された。
アルゼンチン軍の司令官で「汚い戦争」を指導して多くの市民を秘密裏に殺害したマリオ・メネンデス准将は「敬虔なカトリック教徒なので自殺は出来な い」と述べ、多くの少年兵が死んだのとは対照的に責任を逃れた。なお、降伏した1万人以上のアルゼンチン軍兵士はウルグアイ経由でアルゼンチンに送還され た。
この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、これは文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀の初めから続いていたチリやブラジルとの軍事対立も急速に収まっていった。一方で敗北した軍は政治力を弱めて大幅に削減され、開戦前には三軍で15万5000人程だったアルゼンチン軍は2000年現在には三軍で7万1000人程になっている。
多くの艦船を失い、多数の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前不人気をかこっていたサッチャー首相の人気が急上昇した。それまで不人気だったサッチャーは続投し、戦勝によって勢い付いた新自由主義的な改革はイギリス経済を復活させた。
以上が長くなったが、引用で、そのアルゼンチンの動機がわかる。

その当時、右翼の独裁政権が1976年から1983年まで統治して、「国家再編成プロセス」と称して、弾圧をしてきたが、大衆の間にこうした不満が広がってきていて、フォークランド諸島への侵略を行うことにこの弾圧に対する不満が貢献したのかもしれない。

National Reorganization Process 国家再編成プロセス:1976年から1981年に亘るビデラ将軍による軍事独裁政権時代が始まった。そして、ビデラとその後のロベルト・ビオラとレオポルド・ガルチェリ政権によって労働組合員らを中心に学生や活動家数千人が違法逮捕、拷問、殺害、強制的に拉致される等、様々な弾圧が行われた。こうしたアルゼンチン市民に対する弾圧行為をビデラ政権は「国家再編成プロセス」(National Reorganization Process)と呼んだ。この弾圧により1万3千人から3万人が行方不明とされている。また、アルゼンチンの治安部隊と死の部隊はコンドル作戦(Operation Condor)において、他の南米の独裁国家と協力して行動した。後に、アルゼンチンの法廷はこの政府による犯罪行為を人道に対する罪として、これは大量虐殺であると非難した。

以上引用。

クーデター

政府、特にアメリカ合衆国政府が偽簱工作によるクーデターを行い、諸外国の親米政権を設立してきたことが非難されてきている。その何件かはOperation Ajax (1953)のように、爾来、認知されてきている。これはイランの民主的に選挙で選ばれたリーダーを覆すための隠れたクーデターであった。

Operation Ajax (1953) エイジャックス作戦 : イランのモハンマド・モサッデク政権転覆作戦。 バラク・オバマ(Barack Obama)米大統領は2009年6月4日、1953年にイランのモサデク(Mossadegh)政権を転覆させた軍事クーデターに米政府が関与していたことを、任期中の米大統領として初めて認め、米・イラン間の和解に向けた姿勢を明確に打ち出した。モサデク政権は、それまで英資本のアングロ・イラニアン石油会社が独占していたイラン石油産業の国有化を進めていた。米中央情報局(Central Intelligence Agency、CIA)は53年、英政府の協力を得てパーレビ国王(Shah Mohammad Reza Pahlavi)派によるクーデターを画策、モサデク政権は崩壊した。米国はその後、パーレビ国王を積極的に支援したが、国王は79年のイラン革命で失脚した。
53年のクーデターはイラン国民の間では、米国が自由の擁護者を自任する一方で、自国の経済的・戦略的利益のためには民主的に選出された他国政府を不正な手段で排除することもいとわない、二重基準に基づいた国だということを露呈した象徴とみなされている。
http://www.afpbb.com/article/politics/2608959/4228893?blog=yaplog
以上引用。

その他の幾つかのクーデターの下記の例はアメリカ政府によって活発に支援されたと信じられている。
ー1963年 アメリカ合衆国内でのケネディの暗殺
ー1975年 バングラディッシュ クーデター
ー1975年 Gough Whitlamの失脚。オーストラリアの首相Gough Whitlamが1975年に総督John Kerrによって失脚させられたが、Whitlamの経済、社会、対外政策に満足しないアメリカの諜報機関がそうさせたとされている。

Governor-General《濠州》総督:オーストラリアは英国王(女王)を君主とする立憲君主制(オーストラリア総督は英国王・女王が任命)。総督は日本の天皇に似て実権は持たない。「形式上」の議会招集・解散、内閣任命、法律裁可、外交儀礼など。1999に立憲君主制を止め、共和制にするかの国民投票が行われたが反対 55%で否決された。

ー1980年 トルコ クーデター
ー1991年 ハイチ クーデター
ー1992年 ベネズエラ クーデター失敗
ー1998年 インドネシア革命
ー1999年 パキスタン クーデター

公式の陰謀説

幾つかの陰謀説は明確な政治的な理由のために政府組織が公表している。
ー1947年 国際共産主義による陰謀
ー1968年 シカゴ陰謀 裁判
ー1998年 大規模な右翼の陰謀

International Communist Conspiracy 国際共産主義による陰謀 :マッカーシズム (McCarthyism) とは、1950年2月にアメリカ合衆国上院で、共和党議員のジョセフ・レイモンド・マッカーシーが、現在では「205人の共産主義者が国務省職員として勤務している」と告発したと伝えられる演説をした(正確な演説記録は無く、諸説ある)ことを契機に、ハリウッド映画界などをも巻き込んで大規模な「赤狩り」に発展した事件。後にはニューディーラーまで対象となった。

Chicago Conspiracy Trial シカゴ陰謀 裁判 :シカゴ・セブン(Chicago Seven)とは、1968年のイリノイ州シカゴ市で行われた民主党全国大会において、ベトナム反戦デモを行い、暴動の共謀で逮捕・起訴された7名の被告である。元は8名であったため、正確を期して「シカゴ・エイト」という関係者もいる。

Vast right-wing conspiracy 大規模な右翼の陰謀:1998年にファーストレディであったヒラリークリントンがモニカ・ルインスキーのスキャンダルのときに使った言葉で、彼女の夫のビルクリントンを守るのが目的で、ルインスキーの告訴がクリントンの政敵による長く、組織化され、共同での一連の告発の最後であった。
以上引用。

暗殺

時々、下記の著名な人物の暗殺に陰謀説が浮かび上がってくる。もっとも有名なのはJohn F. Kennedy (1963)の暗殺で。多くの陰謀説が展開されてきている。この陰謀説の中心部分はKennedyと州知事John Connallyが受けた損傷はパレードの取り巻きの車の背後と右側から一人の殺し屋によって狙撃されることはできないということだ。この説はOliver Stoneの映画 JFKで一般化された。2003年に行われた3つの世論調査では一人の殺し屋だと言う公式の話には68%から83%のアメリカの一般大衆の間には広く不信感が広がっていると言う結果が出ている。
Robert F. Kennedy、 Martin Luther King, Jr.、Malcolm Xの暗殺にもまた陰謀説の話題がある。多くの事件で、小説「満州の候補者」が利用されてきたと言われている。

The Manchurian Candidate 満州の候補者:59年に発表されたリチャード・コンドンのベストセラー小説。このタイトルはまた「洗脳された人」という意味を持つ。映画があり、「影なき狙撃者 / 失われた時を求めて 」と言う題になっている。朝鮮戦争時、アメリカ軍の1部隊が中共軍に捕まって洗脳される。戦後、部隊のリーダー、レイモンドはヒーローとして帰国するが、彼は洗脳によって暗殺者に仕立て上げられており、レイモンドは共産主義の手先となって暗殺を繰り返すが、部隊の仲間マロイは彼の功績に疑問を持ち捜査を始める。朝鮮戦争での共産主義者による洗脳をテーマにして、それまで明確だった冷戦期のハリウッド映画でのヒーロー(民主主義)と悪役(共産主義)の対立を曖昧にして共産主義者だけでなく反共産主義者をも非難したスパイ・サスペンス映画の傑作。 映画は50年代に吹き荒れた赤狩りを非難した最初の映画の一本として高い評価を得るものの、63年にジョン・F・ケネディが暗殺されると公開を自粛し、87年にリバイバル公開されるまでの間映画の公開は一切行われなかった。

引用は殆どがウィキペディアで、内容が中立なので、そうしている。特にこの陰謀の理論は偏った意見が多数あり、変に、興味本位に走りがちであるので、注意している。あくまでも、我々日本人が外国人とつきあう上での高いレベルの情報を扱おうと言うのが意図である。今日はもう時間となったので、終わり。


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2009年09月17日

陰謀の理論の一覧表3

Project for the New American Century 新しいアメリカの世紀プロジェクトPNACという新しい言葉がたくさんでて来た。Second Chechen War 第二次チェチェン紛争も日頃から関心持っている人はよく知っているのだろうが、我々経営者はその実体を殆ど知らない。Pan Am Flight 103とイラン航空655便との関係、ブッシュ大統領に「This is a gift from the Iraqis.This is the farewell kiss, you dog」と言って、靴を投げた前後関係、KGBのあとのGRU、FSBもあまり知らなかった。9/11 Truth Movement 9/11真実運動も勿論知らない。今日は昨日の続きで、Madrid train bombings スペイン列車爆破事件からはじまる。引用が昨日から長いのはこの事件の背景を知ってもらうためだ。本文は極めて短い。ロンドン同時爆破事件。明日になるが、Wag the Dog(ワグ・ザ・ドッグ)もおもしろい。

2004年のスペイン列車爆破事件は裁判の起訴状によると、イスラム過激派のローカルのグループが実行したのではないと言われていて、この実行はには様々な見解があり、バスクのテロリストである ETAのグループ、社会主義者である政府の高官、警察権力、外国の安全保障組織、スペイン政府の安全保障組織、主要なメディアグループ、司法などの様々な組み合わせで行ったと言う噂がある。この問題を焚き付けている人たちは政府と警察の権力による隠蔽を責めている。

この文章は以下の引用を読まないとわからない。続きはウィキペディアの日本語版にある。

Madrid train bombings スペイン列車爆破事件(Atentados del 11 de marzo de 2004)は、2004年3月11日にスペインの首都マドリードで起こった爆弾テロ。191人が死亡、2000人以上が負傷した。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロと並び、日付から「3・11事件」と呼称されることがある。スペイン国内ではイラク派兵を決めたアスナール政権への批判が集中、撤兵を求める市民のデモが相次いだ。野党もあわせて政権を攻撃、折りしも総選挙 の三日前に(狙ったものと思われる)起きた事件のため、選挙結果に直接の影響を与えた。選挙の結果を受けてアスナール政権は退陣、発足したスペイン社会労働党のホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ新政権は成立直後にイラクからの撤兵を決定し、4月18日から5月までにすべて完了した。
スペインは同時に有志連合から離脱し、アメリカなどは「テロに屈した」と非難した。フィリピンなどもその後、テロの関連から撤退を早めたり、数ヶ月で計6カ国が離脱する結果となったことは、テロが国家に対して影響力を持つことを明らかにした。

ETA「バスク祖国と自由」:バスク地方の分離独立を目指す民族組織である。数多くのテロ事件を起こしたことで知られている。爆弾や暗殺などのテロを常套手段とし、バスク民族主義に反対する政治家やジャーナリスト、知識人、企業家、軍警察、治安部隊などを標的として襲撃した。1960年代よりおよそ800人を殺害している。また、IRA暫定派などのヨーロッパにおけるテロ組織とも関係しているとされている。その活動範囲はほとんどスペインのバスク地方、マドリード、バルセロナ、そして観光客の訪れる地中海沿岸に限られる。またテロを起こすことを目的とはしていないが、隣国のフランス国内でも活動している。なおETAの財源は、誘拐、ゆすり、強盗、武器取引、強制的な税の徴収である。

以上が引用。

ロンドン同時爆破事件は2005年7月だったが、噂と陰謀説では諜報機関がその背後にあると言われている。

本文はこれだけで、これも以下に引用を示すが、その事件の触りだけ引用する。London bombingsにも英文の説明があるが、その実体はよくわからないようだ。

2005 London bombings ロンドン同時爆破事件は、2005年7月7日、現地時間午前8時50分頃(サマータイム期間中、UTC+1)イギリスの首都ロンドンにおいて地下鉄の3ヶ所がほぼ同時に、その約1時間後にバスが爆破され、56人が死亡したテロ事件である。犯行後、アラブ首長国連邦の衛星テレビやインターネット上に「欧州の聖戦アルカーイダ組織」を名乗る犯行声明が寄せられた。声明には、アラブ・イスラム諸国はアフガニスタンやイラクで虐殺に加担しているイギリス政府に対して起ち上がる時であるという呼びかけがあり、また、デンマーク政府やイタリア政府など、アフガニスタン・イラクに軍隊を派遣している各国政府に対して撤退しなければ同じ目に遭うという警告があった。その後、その掲示板に関与を否定する書込みが相次いだこと、この組織に活動実態がないこと、カナダの大停電など無関係なものに発せられる傾向があるため、信憑性が乏しいと考えられた。

戦争

国家が戦争を始め、参入し、終了する動機はしばしば、陰謀の理論家たちにとって疑問とするところであった。軍需品のサプライヤーは国家を戦争に導く出来事に対して部分的にしろ全面的にしろ、工夫し、協力し、それを早めて来たことがしばしば責められて来た。この見地からすると、国家の中には戦争から利益を得る一団が必ず、いると言うことで、どんな口実をつけようとも、それは武器とその他の軍事物資のサプライヤーだ。 Dwight Eisenhower大統領は軍産複合体の潜在的な利害衝突のこの源泉について言及していた。Abraham Lincoln大統領はアメリカの独立戦争の終わり頃に同様の意見を言っていたことで知られている。

Military-industrial complex 軍産複合体は、軍需産業を中心とした私企業軍隊(及び国防総省の様な軍官僚)と政府が形成する政治的・経済的・軍事的な勢力の連合体を呼ぶ概念である。

この概念は特に米国に言及する際に用いられ、1961年1月、アイゼンハワー大統領が退任演説において、軍産複合体の存在を指摘し、それが国家・社会に過剰な影響力を行使する可能性、議会・政府の政治的・経済的・軍事的な決定に影響を与える可能性を告発したことにより、一般的に認識されるようになった。米国での軍産複合体は、軍需産業と軍(国防総省)と政府(議会行政)が形成する政治的・経済的・軍事的な連合体である。

第41代および第43代米国大統領を生み出したブッシュ家は、軍産複合体を生業としてきた。第43代米大統領の曽祖父のサミュエル・ブッシュはオハイオ州 で兵器を製造していたバッキー・スティール・キャスティング社を経営していて、1917年からはワシントンの連邦軍需産業委員会の小火器・弾薬・兵站部門 の委員となった。祖父のプレスコット・ブッシュは東京大空襲で大量に使用された焼夷弾の製造を行なっていたドレッサー・インダストリーズ社に関与してい た。第41代米大統領はこのド社の石油部門で働いていた。その後、第41代米大統領はCIA長官、副大統領、大統領時代において、海外との兵器貿易を押し 進めており、副大統領時代にはイラン・コントラ事件が起きている。

1990年代にホワイトハウスが「ならず者国家」と名指ししていた「イラン」「イラク」「北朝鮮」の3カ国の他に、「スーダン」「シリア」「キューバ」といった反米国家のすべての軍事費を合計しても米国1国だけで19倍程度の軍事費を毎年費やしてきた。さらに、2001年の9・11同時多発テロによって、イスラム過激派に対する対テロ戦争と言う名目は米国の軍事費を前年に比べ326億ドル増額させることに成功し、国防総省の総予算は3,750億ドルにまでなった。

「対テロ戦争」における実際の軍事行動は、敵対勢力への積極的な海外派兵によって行なわれ、兵器の使用に伴って大きな軍需物資の需要が生み出されている。特にアフガニスタンとイラクでは、主戦闘以外のあらゆる侵攻作戦上の業務を米国の民間会社へと委託する方式(民間軍事会社)を生み出すことで、従来のように遠く離れた母国から武器などの物の販売によって利益を得るのではなく、戦争や紛争が起きている現場での労働力の提供による利益を追求するといった、戦争そのものが新たな産業として確立しつつある。

ワシントン州で はある経済学者は2002年に西部ワシントンで直接、間接に防御産業を除いた軍事施設単独で166,000人の仕事或は約15%の労働人口が依存している と見積もった。ワシントン州で2001会計年度で防衛予算から総額約70億6000万ドルの給与、年金、調達費が支払われた。この額はワシントン州が全米 で7位である。米国の防衛研究費だけでもGDPの1.2%に上る。

長かったが以上が引用。昨日の読者からどこが本文かわからんくなくなったとの指摘があり、今後長いものはこうしてコメントを入れる。

これに関連した主張として、政治家が国家の利益だとか人道的な目的だと主張した戦争は実際には商業目的のための天然資源の征服と管理がその動機であると言っている。米西戦争ではハバナ湾で米海軍の戦艦メイン (USS Maine, ACR-1) が爆発、沈没し、スペインとの開戦によって、アメリカ合衆国はPuerto Rico、the PhilippinesGuamの併合をおこなった。Mark TwainとかAndrew Carnegieのような戦争の反対者は帝国主義者たちの動機のための戦争だと主張していた。

Spanish-American War 米西戦争は、1898年アメリカ合衆国スペインの間で起きた戦争である。結果としてカリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得した。キューバでは観戦武官として秋山真之が視察したり、1898年8月14日から始まったアメリカとフィリピンの戦争ではフィリピン国家主義者の独立に対する望みを絶つために行われ、何千もの軍人、民間人の死傷者が生じた。その当時の風刺画ではフィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれていた。

USS Maine 戦艦メイン (ACR-1):爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものが無かったが、ニューヨーク・ジャーナル、ニューヨーク・ワールドの 2 紙を始めとした当時の米国のメディアは、スペイン人による卑劣なサボタージュが原因であると主張した。「メインを思い出せ!くたばれスペイン!」という好 戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、一層米国民を刺激することとなった。この愛国的で好戦的な風潮はスプレッド・イーグリズムあるいは主戦論と して知られている。

爆発原因に関する専門家の見解は現在も定まっていないが、燃料の石炭の偶然の爆発によるものとするのが一般的であり、コンピューター・シミュレー ションによって確認もされている。一方石炭自体にその原因を求めるものや、米国を戦争に引き込もうとするキューバ人革命家によるサボタージュによるものと する異論も存在するが、スペインが戦争に消極的であっただろうという点では一致している。

マッキンレー大統領は開戦に同意せず世論に対して長い間持ちこたえた。しかしメイン号の爆発は、戦争への世論を非常に強力に形成した。

以上が引用で、このメイン号は原因がわかっていないが、陰謀説の格好の材料であることは間違いない。ここから米西戦争が始まり、アメリカは太平洋の覇権を獲得していくことになる。Project for the New American Century 新しいアメリカの世紀プロジェクトの2000年の報告書で「新しい真珠湾攻撃」が必要だと言っているのも、こうした背景があるのだろう。




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2009年09月16日

陰謀の理論の一覧表2

昨日は海野会があって、大野さんに講師をしていただいた。75歳でありながら、歳を感じさせない内容の話しであった。帰国子女の松田女史の英語の質問にも流暢に英語で答え、いろいろな質問にもきちんと丁寧に答えていただいた。日本に軍隊がいないから、経済が成長できた。アメリカの基地が日本からなくなったら、日本は自ら守らなければならない。そうした突っ込んだ議論が出た。また年が明けたら、この続きはもう一度お願いしよう。

さて、昨日のチャベスとムガベはどうでしたか。ムガベの85歳の誕生日にモエ・エ・シャンドンが2,000本と言うのはすごいねえ。また、チャベスのYoutube見ましたか?国連総会で、ブッシュ大統領をDevilと言ったのはこれもすごいねえ。インキュベクスの西村さんは両方とも知ってると言っていたので、感心した。松田女史もインターナショナルだから知っていたかもしれないな。松田先生にも聞くのを忘れてしまった。さて今日は陰謀の理論の一覧表の事例からだ。事例と言っても、たくさんあって、解説をするので、大して進まないが、皆さんが知らないことも多々あるだろうし、ここに注を付けた内容だけでは不十分なものもある。ぜひ、深堀して勉強してほしい。ブッシュになぜ靴を投げたのかその背景はあまり知られていない。では始めよう。

偽旗工作 false flag operationの続きで、事例紹介からだ。

ー1933年2月27日にドイツ国会議事堂が放火された。結果として、ナチ・ドイツを確立するためのきわめて重要な出来事として考えられてきた。

Reichstag building ドイツ国会議事堂 :1933年2月27日午後9時過ぎ、ドイツ“ワイマール共和国”の首都ベルリンで国会議事堂から出火、爆発を伴って炎上した。死傷者は出なかったが、1カ 月ほど前に連立政権の首相に就任していたアドルフ・ヒトラーは共産主義者による武装蜂起の一環と断じ、反対派への無差別弾圧に乗り出した。
またこれを契機に基本的人権の停止など絶対的権力を掌握し、以後10年余りに渡って続くナチス独裁の基盤を確立した。ドイツのみならず現代史の転換点となったこの事件には謎が多い。

ーPan Am Flight 103の陰謀説。

テロによる「Pan Am Flight 103」の爆破事件から20年 FBIは2008年12月21日に、テロにより1988年12月21日にフランクフルト発ニューヨーク行き「Pan Am Flight 103(第103便パン・アメリカン航空)」が爆発され、スコットランドのダムフリースアンドギャロウェーにあるロッカービーの町(Lockerbie in Dumfries and Galloway, Scotland)に墜落し、259人の乗員・乗客とロッカービーの11人が死去した事件から20年ということで、「Director Mueller on the 20th Anniversary of Pan Am Flight 103」を公開した。しかし、そのテロは2001年9月11日の米国多発テロに、さらにアフガニスタン攻撃、イラク攻撃につながり、さらにジョージ・ブッシュ(George Bush)米国大統領が2009年1月に公職を退く前に、最後で不意のイラク訪問が行われ、記者会見でカイロから放送する衛星テレビのチャンネルAl- Baghdadiya TVのイラク人レポーターMuntadar al-Zeidiはバグダッドでの日曜日の記者会見で、ブッシュ大統領に「This is a gift from the Iraqis. This is the farewell kiss, you dog,(これは、イラク人からの贈り物。これは、別れのキス。犬野郎。)」と言い、彼の2足目の靴をThis is from the widows, the orphans and those who were killed in Iraq,(これは未亡人、孤児、およびイラクで殺された人からだ)」と、大声で呼んで靴を投げた事件につながる。
http://jiten4u.iza.ne.jp/blog/entry/847360

イラン航空655便撃墜事件(Iran Air Flight 655)とは、1988年7月3日にホルムズ海峡に停泊していたアメリカ海軍のミサイル巡洋艦ヴィンセンスがイラン航空のエアバスA300B2を撃墜した事件。子供66人を含む6カ国あわせて290人の一般人が死亡した。事件に先立つ1987年にはアメリカ海軍のミサイルフリゲート、スタークがイラク空軍機に誤射されて乗員37名が死亡する事件も起きており、両国の間には緊張状態が続いていた。さらに悪いことに、F-14はときおり民間旅客機の信号(ATCトランスポンダの反応電波)を出していた。このことが後に問題となる。事件当日、655便は管制機関からの指示通りにATCトランスポンダのモード3にセットして飛行していた。このことはヴィンセンスでも確認されていたが、それ以前の行動から、イラン空軍機である可能性も否定できなかった。
それを受けてヴィンセンスは、655便に軍事遭難信号(MAD)と国際航空防衛信号(IAD)により警告したが、655便にはMAD受信機は装備さ れておらず、パイロットはIADをモニターしていなかったか、モニターしていたとしても真剣に受け止めていなかったと考えられている。これらのことが撃墜 に繋がったのである。1996年2月22日、アメリカは撃墜によるイラン人犠牲者248人に対する補償6180万ドルの支払いに同意した。ただし3000万ドル以上と見積もられる航空機自体の補償は現在に至るまでなされていない。

ー1993年の世界貿易センターの爆破はFBIによって仕組まれた。

World Trade Center bombing 世界貿易センター爆破事件:1993年2月26日、ニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)の地下駐車場で爆弾が爆発した事件である。実行犯はイスラム原理主義過激派であるが、その背後で国際反米テロ組織アルカーイダやオサマ・ビンラディンが関与したとされている。1991年の湾岸戦争において、クウェートに侵攻したイラク軍をアメリカを中心とする多国籍軍が撤退させた。アメリカ軍はその後も中東に展開しつづけ、「中東の憲兵」のようなその振る舞いは、反米勢力、特にイスラム原理主義の過激派を刺激するものであった。この対立の構図は解消されることなく、2001年にはアメリカ同時多発テロ事件が起きている。

ーMartin Bryanthaは1996年のポートアーサー事件の犯人だが、彼は嵌められたと言われていて、この事件はオーストラリア政府が銃規制をするために仕掛けた物だと言われていた。

ポートアーサー事件(The Port Arthur Massacre)は、1996年4月28日にオーストラリア・タスマニア島の観光地、ポート・アーサーで起こった大量殺人事件。死者35人、負傷者15人を出した。1996年4月28日(日曜日)の午後1時半ごろ、最初の事件現場となったカフェに犯人マーティン・ブライアント(Martin Bryant)が車に乗って訪れ、当初は外のテーブルに座ってランチを注文して食べていた。その後犯人は「今日はジャップはいない。ワスプばかりだ」とつぶやいて店内に入り、黒いスポーツバッグからAR-15アサルトライフルを取り出して、無差別に発砲。わずか90秒の間に、20人の死者と12人の重軽傷者を出した。

同じ英文のタイトルで、日本の外交文書では「旅順口虐殺事件」、中国では「旅順大屠殺」、英語ではthe Port Arthur Massacreがある。ここでは解説しないが、これも陰謀の理論の対象であるがこの論文には出て来ない。南京の対日記念館にはこの記事が出ている。勿論、南京大虐殺もこの範疇であるが、ここでは述べない。

ー以前のGRUの将校であるAleksey Galkinと同じく以前のFSBの将校であるAlexander Litvinenko、そしてロシア政府並びに国家安全保障部門からの亡命者が1999年のロシア高層アパート連続爆破事件によって、第二次チェチェン紛争を早めることになったが、これはKGBの後継組織であるFSBによってによって行われた偽簱工作であったと主張している。

GRU ロシア連邦軍参謀本部情報総局(Glavnoye Razvedyvatelnoye Upravleniye)は、ロシア連邦軍における情報機関。旧ソ連時代から存続している組織である。組織上は、列国と同様に参謀本部の一部署に過ぎないが、参謀系統を通した情報の収集のほか、スパイ活動・SIGINT・偵察衛星・特殊部隊スペツナズの運用も管轄しており、ソ連KGBに匹敵する巨大な情報機関である。第二次世界大戦中のスパイ、リヒャルト・ゾルゲは、GRUの管理下にあった。GRUの総局長は参謀総長及び国防相にのみ従属し、SVRやFSBと異なり、大統領に直接報告することはない。GRUの本部庁舎は、モスクワの旧ホドゥンキ地区、ホロシェフスコエ通りに位置するガラス張りの9階建ての建物である。GRU職員からは、ステクリャーシュカ(Стекляшка;ガラスビル)と呼ばれているが、一般にはアクワリウム(Аквариум;水族館)として知られている。

SIGINT シギント(signal intelligence)は、通信、電磁波、信号等を媒介とした諜報活動のこと。

FSB ロシア連邦保安庁(Federal Security Service of the Russian Federation)は、ロシア連邦の防諜、犯罪対策を行う治安機関であるが、CIS諸国内において限定的に諜報活動も行っている。2003年には、連邦国境庁 (FPS) が行っていた国境警備機能全体、連邦政府通信・情報局 (FAPSI) が行っていたSIGINT機能、連邦税務警察庁 (FSNP) が行っていた金融犯罪捜査機能の一部も移管され、旧ソ連のKGBの姿に戻りつつある。

Russian apartment bombings ロシア高層アパート連続爆破事件は、1999年にモスクワなどロシア国内3都市で発生し、300人近い死者を出した爆弾テロ。チェチェン独立派武装勢力のテロとされ、同月に首相となったウラジーミル・プーチンはこれを理由にチェチェンへの侵攻を再開し、第二次チェチェン戦争の発端となった。プーチンの対チェチェン強硬路線は反チェチェンに傾いた国民の支持を集め、彼を大統領の座に押し上げた。「リャザン事件」等において、ロシア連邦保安庁(FSB)による関与の可能性を指摘する意見も存在する。

2002年、イギリスに亡命していたロシア連邦保安庁(FSB)の元職員アレクサンドル・リトビネンコは 自著 『Blowing Up Russia:Terror From Within』のなかで、「事件は、チェチェン独立派武装勢力のテロとされたが、 実は第2次チェチェン侵攻の口実を得ようとしていたプーチンを権力の座に押し上げるためFSBが仕組んだ偽装テロだった」と証言した(その後、リトビネンコ氏は、2006年秋、亡命先のロンドンにて、謎の(放射線被爆による)中毒死を遂げた。)。

これに関連した事件で、リャザン事件 :9月22日、リャザン市の集合住宅の地下で、ナンバーの最後の2桁の部分に紙が貼ってある不審車に乗った男女3人を住民が目撃し警察に通報、駆け付けた地元警察が時限爆弾を発見する事件が発生した。警察の爆弾処理専門家は探知機で、非常に強力な軍用爆薬「RDX」反応を確認し、爆弾を処理。地元警察は非常線を張り道路と鉄道を封鎖した。通報した住民は「不審者3人は間違いなくロシア人。チェチェン人ではない。」と証言。その後、「リャザンから脱出できない」とモスクワへ長距離電話をかけた男の会話の一部を地元電話局のオペレータが偶然耳にし、警察に通報。警察が通話記録を調べたところ通話先はFSBだったことが判明した。警察がその後逮捕した不審者2人は、モスクワからの命令により釈放された。事件から2日後の24日、FSBのニコライ・パトルシェフ長官(当時)は「訓練のために仕掛けたダミー爆弾。火薬のように見えた袋詰めの白い粉は砂糖だった。警察の爆薬探知機は故障していた。」と発表した。しかし、爆弾処理に当たった警察の専門家は、事件の数ヶ月後、新聞社のインタビューで、「爆弾は間違いなく本物」「信管と時限発火装置は軍用」「探知機は間違いなくRDX反応を確認」「2万ドルもする爆薬探知機は世界クラス。命にかかわることなので専門家が日頃から厳重に点検・テストしており故障はありえない。」と証言した。FSBはアパート事件も自作自演ではないかとの疑いを持たれることになる。2000年1月18日付のモスクワの英字紙「モスクワタイムス」は、FSBがロシア人の反チェチェン感情を煽る目的で実行した可能性があると指摘した。事件を調査していた弁護士のミハイル・トレパシュキンは逮捕され、今も収監中。
アパート爆破事件の直前に発生し、ロシア軍のチェチェン侵攻のきっかけとなったチェチェン武装勢力のダゲスタン共和国侵攻に関しては、過激派指導者シャミル・バサエフが関与を認めているが、アパート爆破事件に関しては、バサエフは関与を否定している。

Second Chechen War 第二次チェチェン紛争:チェチェン共和国独立派と、ロシア連邦及びロシアへの残留を希望するチェチェン人勢力との間で発生している紛争であり、一般的にソ連崩壊直後から1996年まで続いたものを第一次チェチェン紛争、1999年に勃発したものが第二次チェチェン紛争と分類されている。2009年4月16日に国家対テロ委員会は独立派の掃討が完了したとして対テロ作戦地域からの除外を発表、10年の長きにわたった紛争は終結した。

KGB ソ連国家保安委員会(Committee of national(state) security):1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘密警察。軍の監視や国境警備も担当していた。東西冷戦時代にはアメリカのアメリカ中央情報局(CIA)と肩を並べるかそれ以上の組織と言われていたが、ソ連崩壊と同時にロシア連邦保安庁に権限を移行した。

ー数多くの9/11陰謀の理論が2001年9月11日の攻撃を説明するために提供されて来たが、その多くがアメリカ合衆国政府の役人の何人かが事前に、意図を持って、それを起こしても良いと言う攻撃であったことを知っていたと主張していて、もしくは彼ら自身が攻撃に画策していて、テロリストに対する戦争、アフガニスタンとイラクに於ける戦争、増大する軍備、警察国家の拡大、彼らが利益を享受するための押し付けがましい国内外の政策のための口実として行ったと主張している。

この賛同者は「新しいアメリカの世紀プロジェクト」だと言っていて、この組織は増大するアメリカのグローバル・リーダーシップを議論する保守的なシンク・タンクであり、その以前のメンバーには元国防長官の Donald Rumsfeld、元副大統領のDick Cheneyなど他にブッシュ政権の主要なメンバーがいる。このグループの2000年の報告書には「ある壊滅的で、大きな変化を引き起こす出来事ー新たな真珠湾攻撃のような」が21世紀の「アメリカ合衆国のグローバルな覇権」を計画を実行する上での口実として必要であったと言っていた。9/11真実運動 9/11 Truth Movementは9/11に関しての「真実」と言われて来た真偽をただす人々の言葉通りの名称である。

Project for the New American Century 新しいアメリカの世紀プロジェクトPNAC:ピーナック)はアメリカの保守系シンクタンクで、1997年に設立された非営利的教育組織である。PNACはアメリカの国際的指導力を促進することを目標としており、ワシントンD.C.のアメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(w:American Enterprise Institute)と同じ建物に事務所を置いている。PNACは不明確な未来のために世界情勢におけるアメリカの支配を確立すべく、地上・宇宙空間・サイバースペースの軍事的・経済的支配を画策する、多数の懸案事項を提起してきたため、「新アメリカ世紀」と名乗っている。

PNAC自身は以下の基本提案に専心すると宣言している。
    1.    アメリカが指導力を発揮することは、アメリカにも世界にも良い。
    2.    このリーダーシップには、軍事力、外交エネルギーおよび道徳原理への関与が必要とされている。
    3.    今日の政治的指導者のほとんどは国際的指導力を主張していない。
    4.    それゆえ、アメリカ政府は、軍事力を含めて使える全ての手段によって、揺るがない優勢を獲得するために、その軍事優位および経済優位を十分に利用するべきだ。

新しい真珠湾攻撃  PNACはアメリカ同時多発テロ事件の一年前にあたる2000年9月にアメリカ防衛再建計画を公表した。同文書では、「アメリカの防衛体制は新しい真珠湾攻撃のような破滅的な出来事抜きには、その再建のプロセスは長期間を要するものになるであろう」と述べられており、PNACがアメリカ同時多発テロ事件に関与していたという主張の論拠のひとつとなっている。

PNACは1997年に、ブッシュ政権の新保守主義のイデオローグ、ポール・ウオルフォヴィッズ( Paul Wolfowiz )、エリオット・エィブラハムス( Elliot Abrahams )、ディック・チェーニー( Dick Cheney )、ドナルド・ラムズフェルド( Donald Rumsfeld )、ジョージの弟ジェブ・ブッシュ( Jeb Bush)達によって設立された。その創設の宣言文は、基本的にアメリカが世界警察としての権威を回復し、アメリカ軍事力を中心とした世界秩序の再構築を 唱えている。この宣言で後に問題となったのは、アメリカ主導の秩序再構築の為には、「破滅的で、触媒的な、新たな真珠湾攻撃のような出来事が必要である」 とのべているところと、イラクのサダム・フセインの政権の変換を訴えているくだりである。

9/11 Truth Movement 9/11真実運動:9/11がブッシュと側近のグループによって惹き起こされたと見 なす「9/11真実運動」は、この宣言文を9/11とその後の米国によるアフガニスタンとイラク侵略の青写真とみなしている。
レーマン氏は1997年の創設メンバーとしては名を連ねていないものの、2001年の9/11直後のPNACの宣言文に彼の名を見ることが出きる。この宣言文では9/11事件、アルカイダ、そしてサダム・フセインを直線で結び、ブッシュ大統領にイラク侵略を強力に押し進めている。その後レーマン氏は議会の 9/11調査委員会のメンバーとして任命された。9/11調査委員会の報告書は9/11事件の真実を隠匿するものに他ならず、ブッシュの側近にあたるレー マン氏の影響はとても大きかったと考えられる。
http://plaza.rakuten.co.jp/transcultural/diary/200801280000/





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プロフィール

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海野 恵一
1948年1月14日生

学歴:東京大学経済学部卒業

スウィングバイ株式会社
代表取締役社長

アクセンチュア株式会社代表取締役(2001-2002)
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海野塾のイベントはFacebookのTeamSwingbyを参照ください。 またスウィングバイは以下のところに引っ越しました。 スウィングバイ株式会社 〒108-0023 東京都港区芝浦4丁目2−22東京ベイビュウ803号 Tel: 080-9558-4352 Fax: 03-3452-6690 E-mail: clyde.unno@swingby.jp Facebook: https://www.facebook.com/clyde.unno 海野塾: https://www.facebook.com TeamSwingby
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