2009年12月

2009年12月23日

アフガニスタンでの戦争

これから翻訳する記事は論文と言うよりも,アフガニスタンの現代歴史の解説だ。今までの経緯がよくわかるので,アフガニスタンの歴史を勉強してほしい。ここから次のテーマの足掛かりを考えて行きたい。このアフガニスタンへの戦争の背景について、アーロンロッソがロックフェラーとの話をした内容をこのブログで書いたことがある が,そう言った背後の情報があれば一番良い。今日この記事を書きながら,調べてみる。さて始めよう。

アフガニスタンでの戦争

腐朽の自由作戦 2001年から今日まで

アフガニスタンでの戦争は21世紀の最初で大きな紛争である。この戦争の起源は進行中の内戦とソビエトの侵略と1970年代と1980年代の占領であるが,現在の戦争はアメリカでの2001年9月11日のテロ攻撃に呼応して、2001年10月に始まった。

以下YouTubeを貼付けてあるが,英語で恐縮だが,説明を下に書いておいた。

YouTubeビデオ:重装備に武装した兵士が何年にもわたって,最大の反乱軍の2つに攻撃して来た。アメリカの第2番目に大きな基地で6回もの自爆テロがあった。(2009年8月19日)

紛争の原因

1989年にアフガニスタンからソビエト軍が引き上げた後に、1992年にアフガンの共産党政権が崩壊し,長引いていた内戦が反共産主義のアフガン兵士の様々な派閥の間で,荒れ狂い、彼等は自分たちのことをムジャヒディン(聖戦士)と呼んでいた。

この混沌の中で,幾人かの以前のムジャヒディンはムハンマド・オマルを指導者として見出した。

ムハンマド・オマル(Muhammad Umar 1959年? ‐ )は、イスラム主義勢力タリバンの最高指導者。初代アフガニスタン・イスラム首長国首長。ムッラー・ウマルとも。日本の報道では「オマル師」と表記することが多い。アフガニスタン南部カンダハル近郊の出身である。

パキスタンのイスラム神学校(マドラサ)に学び、ソ連のアフガニスタン侵攻中はムジャヒディンとして戦った。群雄割拠のアフガニスタンに1994年頃から現れた新興勢力「タリバン」の指導者として、1996年のカーブル占領を受け新政権「アフガニスタン・イスラム首長国(Islamic Emirate of Afghanistan)」 を発足させ、その首長(アミール・アル=ムウミニーン)に就任した。タリバンは宗教的な紐帯を軸に発足した政権であり、首長の称号もかつてのカリフになぞ らえたものだったが、オマル自身はマドラサの教育を修了しておらず、宗教的な勧告(ファトワー)を発する権限はもたなかった。

タリバン政権はイスラムの価値観に基づいたアフガニスタンの復興を目指したが、イスラムの名のもとに国民に女子教育禁止など極端な人権侵害を行ったため国際的に孤立した。さらにアメリカ合衆国やサウジアラビア政府に対するテロ行為の黒幕と目されていたウサマ・ビンラディンとアルカイダを客人として迎え入れてかくまったことから、アメリカと激しく対立する。アルカイダはアフガニスタンでテロリストの訓練キャンプを設置したほか、この間にもアメリカ大使館爆破事件や米艦コール襲撃事件などのテロ事件を引き起こした。このため1999年には国際連合安全保障理事会決議1267、2000年には国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、アルカイダとビンラディンの引き渡しが要求されたが、オマルはいずれの決議にも従わなかった。

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が起こり、ビンラディンがその最重要容疑者とみなされたタリバンはアメリカからその身柄の引渡しを要求されるが、 オマルはこれも拒否した。このためタリバンはNATOの攻撃対象とされ、NATO軍と北部同盟の攻撃により同年12月までに政権は崩壊した。

オマルはタリバン政権崩壊とともに残余の兵士とともに逃亡し、その後は消息不明となっている。一説には、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯を転々としながらアフガニスタンの親米政権に対する敵対行動を指揮しているという。

また、2006年初頭にアフガニスタン国軍により拘束されたタリバンのムハマド・ハニーフ報道官の供述に拠れば、オマルは現在パキスタン軍の保護下にあり、パキスタン国内の安全な場所に滞在しているという。 ja.wikipedia.org/wiki/ムハンマド・オマル

このムッラーとはイスラム教の指導者のことである。以前のムジャヒディンの戦士達は共産主義政権崩壊後にそれぞれの村に戻り,パシュトゥン人(アフガニスタン南部に住む民族)による民族集団は新しい武装集団としてタリバン Talibanを名乗るようになった。このタリバンと言う言葉は「学生」と言う意味で,オマル師に対する活動の最初の新加入メンバーの多くはイスラム教の学生であった。パシュトゥン人による他の以前のムジャヒディンの指導者たちはこの新しいグループとしてのタリバンに参加し、この国に法と秩序を課そうとした。

彼らが課そうとした独特の法はイスラム法典の極端な考え方であった。タリバンに課された法の下では女は外で働いたり、学校に行くことは許されない。男はあご髭を生やし、定期的に宗教活動を行う取り決めがある。テレビは禁止され、ヒンズー教のような少数派の宗教は何らかの識別できるような衣服を着るように要求された。また、2001年にはタリバンは彼らが管理している地域のすべてのイスラム教でない偶像と塑像の破壊を命じた。彼らはまたオサマ・ビンラデンと彼のアルカイダ支援を行った。

1994年にはタリバンは地方豪族を攻撃し、打ち破ることによって、秩序と軍事の成功の噂を集めだした。ある程度は、カブールに安定した友好関係のある政府を確立する媒介として、すぐにパキスタンは彼らを支援し始めた。以前のムジャヒディンの軍隊との間での継続的な闘争によって、避難民の波がパキスタンの国境地域に押し寄せ、この地域に於けるパキスタンとの貿易を阻害した。1994年末になって、タリバンはカンダハルを管理下に於き、大量の近代兵器と戦闘機、 タンク、ヘリコプターを手に入れた。1995年1月にタリバンはカブールに接近した。 

この時点から1996年9月にカブールを掌握するまで,タリバンはいくつかの地方の軍隊と豪族と戦って、結局はそのすべてを打ち負かして来た。幾人かの反タリバンの指導者とその軍隊は国の北部に逃走し,タリバンとの戦いを継続している。これらの指導者もしくは豪族の一人にアフマド・シャー・マスード (Ahmed Shah Massoud)がいた。

アフマド・シャー・マスード(Ahmed Shah Massoud 1953-2001):アフガニスタン・イスラム国国防大臣、軍司令官、アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線(北部同盟)副大統領、国防大臣、軍司令官を歴任。死後、「アフガニスタン国家英雄」の称号を追贈された。1992年にムジャヒディン勢力が首都カブールを占領し、ラッバーニー政権が誕生すると、そのもとで国防相、政府軍司令官を務めた。その後、ラッバーニー政権が崩壊しタリバンが 勢力を拡大すると、タリバンに対抗する勢力が結集した北部同盟の副大統領・軍総司令官・国防相となった。

タリバンがアフガニスタンを支配すると、 北部同盟の勢力圏はアフガニスタン北部山岳地帯に限られたが、領土としてはアフガニスタンの約10%、人口としては30%程度を掌握していた。その後北部同盟の中枢人物として活躍したが、2001年9月9日、自爆テロによって暗殺された。なお、2001年9月9日はアメリカ同時多発テロ事件の2日前であった。弟のアフマド・ズィヤ・マスードは北部同盟の外交官を務め、2004年12月7日、ハーミド・カルザイ政権の副大統領に就任した。1996年のタリバーンによる首都カブール包囲の際には、これ以上首都や民衆に被害を及ぼす訳にはいかないとして撤退している。大の読書家で、1997年時には、寝る間も惜しみ読書に時間を割いていた。ja.wikipedia.org/wiki/アフマド・シャー・マスード

今日はここまで。明日はこの後半がある。その後はこの戦争に批判的な意見を膨大なインターネットの海の中から探して,その後は中立なものを探して翻訳しようと考えている。ウィキペディアから外れると面白い記事があるが,反面、記事とか論文を探すのに大変だ。
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アフガニスタンにおけるアメリカとNATOの戦争2

待ちに待った冬至がすぎた。今日から日が長くなる。本格的な冬がこれからくるのだが,なぜか、春が今日から近くなる。今日は天皇誕生日なので,スケートの仲間はクリスマス・ランだ。サンタの格好をして市内を走るのだが,昨年から参加していない。どうも恥ずかしいのが本音だ。このアフガニスタンの戦争の論文は今日で終わりだ。今日は項を改めて,新たにこの戦争の経緯の記事を載せる。

昨晩は海野会の忘年会を行ったが,私が講演をした。久しぶりの海野会の講演だったが,テーマはこのブログで,グローバリゼーションだった。日本のグローバル・リーダー100人の育成が目標だ。日本,中国、インドがアジアを連携させるのが目的だ。そうすれば,白人に勝てる。日本人だけではアジアをまとめられないし,まとめたこともない。そのためにはまず、中国との連携をどう深めるかだ。そして日本人が改めて,中国と中国人を理解することから始めなければならない。武力の話ではない。ペンは剣よりもつよしだ。と言う内容の話を行った。勿論,今のこのブログの内容のことも話をした。さて続けよう。

彼らの参画は以前のソビエト諸国の60%までになり、アフガニスタンに、NATOにコミットして軍隊を送って来ている。モルドバが加わって、Belarus, Cyprus, Malta, Russia、Serbiaを除いたすべてのヨーロッパ諸国(Andorra, Liechtenstein, Monaco, San Marino、Vatican Cityのような極小国を除くと)がアフガニスタンで、NATOの下に軍隊を派遣している。

世界の歴史の中で、戦争行為において、これほど多くの国々からの軍隊派遣団を受け入れたことはなかった。-50ヶ国以上- 一つの戦闘地域に参加している。一つの国の中で。5つの大陸とオセアニア、中近東からの軍隊。

2003 年3月のイラクへの侵略後そして、軍隊を引き上げて、アフガニスタンへ再配置するまで、アメリカとイギリスによる意思を持って一緒になった推定の連携でさえ31ヶ国の軍隊となった:The U.S., Britain, Albania, Armenia, Australia, Azerbaijan, Bosnia, Bulgaria, Croatia, the Czech Republic, Denmark, El Salvador, Estonia, Georgia, Hungary, Japan, Italy, Kazakhstan, Latvia, Lithuania, Macedonia, Moldova, Mongolia, Poland, Romania, Slovakia, Slovenia, South Korea, Spain, Thailand、Ukraine

31ヶ国の派遣国のうち21ヶ国が元ソビエトブロック諸国(アルバニアは間接的だが)もしくは以前のユーゴスラビア共和国であり、この国は最近 (1999)NATOに加盟しているが、もしくはこのブロックの中で統合しようと準備していたり、もしくは別の形で何かしようとしている。

世界の最近の3つの大きな戦争- Yugoslavia, Afghanistan and Iraqに対して、そして、その中で - はグローバルなNATOの拡大のための試練のもしくは訓練の場として、使われて来た。

NATO 管理下のこの国際的で急激な反応(攻撃)力と占領軍の連結は今週のオバマの12月1日の増派演説、国務長官Hillary Clintonによるフォローアップ、NATO事務総長のAnders Fogh Rasmussenにより、さらに前進し、NAYOと同盟の外国の大臣との最近の会議の結論によって同盟国の軍隊はさらに増えることとなった。

12 月4日にNATOの幹部は...少なくとも25ヶ国は来年アフガニスタンに合計で、約7,000人と「さらにそれ以上」の追加の軍隊を送って来るだろう。 そして、アメリカの国務大臣Hillary Rodham Clintonが同盟の決議を支持しようとしている。ブラッセルでのNATOの会議に参加したNATOの加盟国でない諸国の不特定多数の外国の大臣たちも、またこのアフガン戦争、アメリカとNATO軍の最高司令官Stanley McChrystal将軍とアフガン外務大臣Rangeen Dadfar Spantaのために派兵している。

「さらにそれ以上」という7,000人のNATO軍は42,000人のアメリカ人ではない、現在NATOに使えている兵士たちを加えて、同様に35,000人のアメリカの兵士を合わせると少なくとも 85,000人がNATO指揮下になり、ここにはアフガニスタンに派兵される新たなアメリカの33,000人は入っていない。この戦争以前ではこのブロックの最大の外国の軍隊の配置は1999年にコソボであったが、同盟国側のコソボの軍隊は最大時で、39ヶ国5万人の兵士であった。

連合のアメリカとNATO軍は圧倒的な人数となり,15万人を超えた。この年の9月で比較すると,約12万人がイラクにいて、後は他国のわずかの人たちだけで,これらの人たちはNATOの件集委員会にアサインされていて,イラクに残っている。

以下はイタリアの話とか,ポーランド,イギリス,ブルガリア、クロアチア、チェコ共和国,スロバキア,ドイツ、トルコ、ハンガリー、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア、アラブ首長国連邦の派遣のいきさつが延々と続くので,省略した。(私注)

イスタンブール協力イニシャティブは2004年にトルコでのNATOサミットで始まった。これは地中海ダイアローグ(1994年に創設され、現在7か国(アルジェリア、エジプト、イスラエル、ヨルダン、モーリタニア、モロッコ、チュニジア)が参加する。政治的対話や、NATO関連活動への地中海諸国の参加を通して、地中海地域の安定を目指している。)の会員と「湾岸協力会議」の軍事パートナーシップを向上させるためである。

湾岸協力会議:Gulf Cooperation Council 中東・アラビア湾岸地域における地域協力機構である。1981年5月25日に設立。本部はリヤド。加盟国は、アラブ首長国連邦・バーレーン・クウェート・オマーン・カタール・サウジアラビアの6カ国。アラビア湾に面するすべての国が加盟しているわけではない。イラン及びイラクは、現在非加盟。イエメンは、2007年現在、加盟交渉中であり、2016年までには加盟する意思を見せている

2009年12月15日、第30回湾岸協力会議の首脳会議がクウェート市で二日間の日程で開かれた。採決された最終コミュニケは、各国は通貨同盟の設置、 域内の経済・軍事協力、テロ対策、地球温暖化問題への対応、イラン核問題の平和的解決、イエメン内紛問題でのサウジアラビアへの支援を確認した。通貨統合の課題では、一部を除く参加国首脳がGCC通貨同盟発足に合意した。アラブ首長国連邦(UAE)、オマーンが欠席した。ja.wikipedia.org/wiki/湾岸協力会議

ア メリカ軍事通信社は12月3日の論説で,現在ペンタゴンで検討されている「4年毎の国防計画の見直し」について検討した。国防副長官のWilliam J. Lynn IIIは「レイセオン」のための政府の運営と戦略の副大統領と言うポストが仮定される前に「4年毎の国防計画の見直しは...他にないものだ。第一に現在の戦時要件を扱っている。通常のものと通常ではないものの可能性についてのバランスを考えている。国家安全保障に対しての「政府全体」を包含してい る。... これは重大な4年毎の国防計画の見直しだ。」との彼の大言壮語を引用している。

レイセオン(Raytheon Company、 NYSE:RTN)とはアメリカの軍需製品メーカーである。本社はマサチューセッツ州ウォルサム。世界第1位のミサイルメーカー。年2兆円超の売上のほと んどは、軍やアメリカ合衆国政府向けの製品である。また電子レンジを発明したメーカーでもある。従業員数7万人強のうち4万人近くが技術者である。ja.wikipedia.org/wiki/レイセオン

Lynn はこうも言っている。「国防長官Gatesは我々が関わっている紛争は我々の関心のまさに最先端にあるべきだと言うことをはっきりさせた。彼は将来の未だわからない紛争に必要となるであろうというものよりかは、現在必要となる可能性のあるものはあきらめるべきではないことをはっきりさせたいと言っている。ペンタゴン はまさに戦時体制にあることもはっきりさせたいとも言っている。...」

アフガニスタンの8年以上にわたる戦争は2011年には終わらない。オバマが明言したにもかかわらず,この類いの戦争がここで最後のわけはない。隣のパキスタンを引きずり込み続け,中央アジアとイランへと拡大してく恐れもある。

世界が直面している危機は南アジアの戦争だけではない。アメリカそれ自身が戦争だ。はっきり言ってしまえば,自称唯一の超大国の向こうみずな行為とそれが率いる軍事ブロックは軍事介入を持って,あたりの国家を脅す独占した権利を我がものとしている。

この政策が真の国際社会によって終わりとしなければ,- この社会とはより大きな欧州太平洋の世界(彼等自身もそう考えているが。)の外の人類の7分の6以上の人々の社会 - アフガニスタンは今世紀最後の戦争にはならず,逆に最初で,その原型的な戦争となるであろう。更に悪くなる前兆でしかない。

これでこの論文は終わりだが,途中各国のこの戦争への派遣の説明が数多くかったので割愛したが,こうした戦争は今後、果てることがない。そろそろアメリカの覇権主義も終わりにしないとまずい。と言った論調だ。今まで,陰謀論をやって来て,9.11も扱って来たが,そこからこのアフガンの戦争が始まっている。1979年にはロシアがここにせめて9年占領した後,泣く泣く撤退している。ブッシュは正義の戦争と言うことで始めたが,本当にそうであろうか。この戦争も9年目に入った。オバマは後3万人増派して,2011年に終わりにしようと言っているが,終わりそうにない。何かが狂っているように思われるが,先の地球温暖化と同様に政治が絡んで来てしまうと正義の戦争ではなくなって来てしまう。ここはやはり地政学の世界だと思う。

私の不勉強なところがあって,アメリカの話は先の論文でも述べていたので,日本の対応もそろそろしっかり考えないといけないと言うことだが,アフガニスタンに着いてもっと勉強しようと思う。この次はアフガニスタンのこの戦争の経緯を次のところで,勉強しよう。The History Guyと言うサイトがあって,この戦争を手頃に説明していたので,これを翻訳することにした。多分偏っていないと思う。

http://www.historyguy.com/war_in_afghanistan.html#afghanwardescription

タイトルは「アフガニスタンでの戦争」War in Afghanistanで、今までの戦争の経緯を説明して言る。今日は祭日なので,引き続き項を改めて,この論文を翻訳する。今日はスケートをしないので,もう一度アップできると思う。次の話では北部同盟のマスードの名前が出てくる。この人は夜も寝ないで,読書に励んでいたようだ。私と同じだ。2001年の9.11の直前にタリバンによって暗殺されてしまったが、日本は平和だ。弟がハーミド・カルザイ政権の副大統領をしているようだ。

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2009年12月22日

アフガニスタンにおけるアメリカとNATOの戦争

先週まで大連に行っていたとは思えないような時間の早さだ。今日はBPOセミナーで、海野会では私が講師だ。今週で実質的の今年は終わりだ。先週が昔のようだが,この一 年は一方で,一瞬のように終わってしまった感じだ。年末はどうも地政学から抜け出せそうにないかもしれない。今日からアフガニスタンだが,しばらくこうした,最近の地政学を続けたい。ゲオポリティックスだけだと頭が固まってしまいそうだ。さて始めよう。

「偉大なゲーム:アフガニスタンにおけるアメリカとNATOの戦争 一国の戦争地域の中の50もしくはそれ以上の国々」
The Great Game: U.S., NATO War In Afghanistan
Fifty or more countries in a single war theater
by Rick Rozoff December 5, 2009

ア メリカとイギリスは2001年10月7日にアフガンの首都カブールに爆撃を始め,トマホーク巡航ミサイルが軍艦,潜水艦から発射され,爆弾は戦闘機から落とされ,その後すぐに,アメリカの特殊部隊が地上作戦を開始し,その後,通常の陸軍と海軍の部隊が任務を遂行して来た。爆撃と地上の戦闘作戦はその後,8 年以上も続き,近いうちに,最高のレベルまで、増大するだろう。

アメリカとNATOの連合軍は圧倒するほどの数であり,15万人を超えている。比較してみると,今年の9月現在,大体,イラクに12万人のアメリカ軍と他国のほんのわずかの人たちがいた。それらの人たちはNATOの研修任務にアサインされた人たちであった。

国防長官であるGates は我々が今直面している葛藤は我々の議題のまさしく先頭にあるべきだと言うこと明らかにして来た。彼はいくつかの未知の将来の葛藤に必要となるものために、現在必要とされている可能性に対してあきらめるべきではないと言うことを確かめたかった。ペンタゴンが本当に戦時体制になることを確かめたかった。....ここ数十年で,始めて,政治と経済の立役者がペンタゴンの仕事のやり方に対して抜本的な見直しを一緒に行うことになった。

アフガニスタン:歴史的な先例と前歴

過去10年にわたって,アメリカ合衆国とその他の西欧諸国、そして不幸にも世界の多くの国々の国民はワシントンとヨーロッパの軍事同盟国そして「ヨーロッパ 大西洋共同体」の周辺の武装された前哨基地として任命された国々が世界中に武力侵略することに慣れてしまって来ている。

Yugoslavia、 Afghanistan、Iraqに対する戦争ならびにColombia, Yemen, the Philippines, Ivory Coast, Somalia, Chad, the Central African Republic, South Ossetiaおよび他のどこかの様々な国家で,より控えめな態度での軍事行動並びに代理活動がアメリカ並びにNATOのパートナーの疑いのない特権となって来た。非常に数が多いので,もし西欧諸国でない国家が,試しに思い出そうとしても,どのように同様なアクションがなされてきたか、もしくは考えられて来たことを考えることすら、多くの人々は思い出せないだろう。

30年前のこの12月24日に最初のソビエト軍がアフガニスタンに入り,近隣国の政府を支援して,パキスタンに本拠地を置く武装された反政府軍と戦うために侵入したが,この反政府軍はアメリカに隠れて,(後に全く公に)支援されていた。 1979年の終わりに近づいた時に,次に述べるがソビエト軍の早い時期の兵力は5万人程度になっていた。

壮大なゲーム

アフガニスタンへのロシアの影響を阻止するために、1839年にイギリスは自国軍とインドの植民地軍併せて,21,000名で,アフガニスタンに侵攻し,1878年にはその2倍の数で侵攻し,これが壮大なゲームと呼ばれるようになったことは注目に値する。

1980年1月23日にアメリカ大統領James Earl (Jimmy) Carterは彼の最後の一般教書演説で、「アフガニスタンへのソビエト軍の侵略の行為は第二次世界大戦以来、平和に対する最も深刻な脅威である。」と述べた。

ソ連邦はこの国から軍隊を撤退をし始めたとき-最初の半分は1988年5月15日から8月16日で残りは1988年11月15日から1989年2月15日-彼らの最大の人数は僅かに10万人を超えていた。

2009年12月1日にアメリカ大統領Barack Obamaは既に駐留している68,000人に加えて,アフガニスタンに,更に30,000人を派兵すると発表し、2日後に、国防長官Gatesは議会 で...アフガニスタンに行く3万人の増派部隊は支援部隊を含めると少なくとも33,000人になると語った。
すなわち、10万人以上の部隊になる。民間軍事会社や警備会社を加えると,その数はもっと大きくなる。

ソビエト軍はアフガニスタンに、どうにかこうにか9年以上駐留した。アメリカ軍は現在,この国で,戦闘作戦が9年目であり,4週間以内で,暦の上では戦争が10年目になる。

11月25日にホワイトハウスの広報担当官Robert Gibbsは「我々はアフガニスタンでの努力は9年間になる。更に8年とか9年そこにはいない。」と国民に保証した。この言外の意味はアメリカが2017 年までアフガニスタンで戦争を続けると言うことかもしれない。16年にもなる。

アメリカの歴史において、現在のものより前の,最も長い戦争はベトナム戦争だった。アメリカの軍事顧問は1950年代末以降この国にいて,隠密作戦が1960年代始めに行われたが、 企んだトンキン湾事件の年になって初めて,-1965年-ペンタゴンは南に於いて,主要な戦闘作戦を開始し,北に対しては定期的な爆撃を行った。 最後のアメリカの戦闘部隊が1972年に南ベトナムを離れたが、この7年の後であった。

昨年の晩夏以来、アメリカとNATO同盟国はパキスタン内部に,定期的な無人飛行機からのミサイルの発射とヘリコプターによる攻撃を行って来た。ソビエト軍は30年前に同様のことを行っていた。- 彼ら自身の国境が脅かされた時に。 - ワシントンの反応ははっきりと,第三次世界大戦の引き金を引いて来たのかもしれない。

ソ連邦は1980年代にアフガニスタンに仲間のワルシャワ条約国のどこからも軍隊を投入しなかった。歴史的な皮肉だが,誰も行っていないと言う事実は明らかだが,これらの国のどこの国も今はNATOのもとに参加していて,アフガン戦争地域で殺したり死んだりしている。Bulgaria, the Czech Republic, Hungary, Poland, Romania, Slovakiaそして、旧東ドイツで、現在はドイツ連邦共和国として約4,500人の兵士が駐留している。

彼等は50ヶ国の国からの軍隊で,Afghanistan-Pakistanの戦線にNATO指揮下のもとで派遣し,もしくは派遣しようとしていて,以下の同盟国といくつかの参加プログラムからなっている。

NATO同盟国

Albania
Belgium
Britain
Bulgaria
Canada
Croatia
The Czech Republic
Denmark
Estonia
France
Germany
Greece
Hungary
Iceland
Italy
Latvia
Lithuania
Luxembourg
The Netherlands
Norway
Poland
Portugal
Romania
Slovakia
Slovenia
Spain
Turkey
The United States 

平和のための参加/欧州・大西洋パートナーシップ理事会(Euro-Atlantic Partnership Council, 略称:EAPC)

Armenia
Austria
Azerbaijan
Bosnia
Finland
Georgia
Ireland
Macedonia
Montenegro
Sweden
Switzerland (昨年撤退)
Ukraine

連携国家

Australia
Japan (海軍)
New Zealand
South Korea

アドリア海憲章国 (平和のための参加と重複):
Albania
Bosnia
Croatia
Macedonia
Montenegro

イスタンブール協力イニシャティブ

United Arab Emirates

3者間のAfghanistan-Pakistan-NATO 軍事委員会:
Afghanistan
Pakistan

その他

Colombia
Mongolia
Singapore

上記の名簿には以前の15のソビエト共和国の内7つが入っているが,(別途検討する価値がありそうだが,)この年の「Twitter革命」の後のモルドバと カザフスタン、ここは9月にアメリカの大使が「平和のための協力協定」の責務として軍隊とか、志願者の配備をするように政府に圧力をかけた。この両国は以前イラクに軍隊を派遣していた。

Twitter Revolution:翻訳するとTwitter革命だが,仔細は以下の通り。WP Tuesday, April 21, 2009The Twitter Revolution That Wasn't By Anne Applebaum

Anne Applebaumは、ヨーロッパのもっとも貧しい、世界でも最も不幸な土地として挙げられるモルドバにも、ようやく、情報革命がおよんで政治を変え始めた、と考えます。この事件を世界のメディアはTwitter Revolutionと呼びました。

「モルドバのVladimir Voronin大統領は、元ソビエト秘密警察の署長であり、決して偶然とは思えないが、モルドバで最も裕福な男の父親である。これに対して、現代の情報技術を手にした若者たちが、ソーシャル・ネットワーキングによって、民主主義を要求し、不正選挙に抗議するデモを組織した。若者たちは1000人を集めたいと願っていたが、1万人を超える参加者が集まった。」

それはイギリスのフーリガンや、ルーマニアで首都の街頭を占拠したモッブの破壊や放火ではまったくありません。逆に、デモで暴力行為を扇動したのは、モルドバ秘密警察が潜入させた者たちでした。しかも、モルドバはヒトラーとスターリンの合意でルーマニアから分割された土地であり、今はルーマニアがEUを目指し、モルドバの支配者はロシアを頼っています。EUは平静を呼びかけ、ロシアはルーマニアによる政治介入やクーデタを非難しています。民衆の抗議は組織されておらず、多数の支持もないようです。しかし、これからも繰り返し集まる力を得たでしょう。http://www1.doshisha.ac.jp/~yonozuka/Review2009/042709review.htm 引用が中途半端だが,大体の内容はわかるので中断して掲載している。

平和のための協力協定( 平和のためのパートナーシップ):東欧諸国、旧ソ連諸国とNATOが結んだ協力協定です。NATO加盟に代わるものとして考えられましたが、後に、一部諸国にとってはNATO加盟の準備段階 を意味するものであることが判明しました。1993年10月下旬、アスピン米国防次官が旧ソ連圏諸国全体に対してNATOとの「平和のための協力」協定を提案しました。

それは調印国に対し安全の保証や正式加盟などを約束しないものの、NATO本部に連絡事務所をおき、危機の際に協議することを認め、国防計画と予算の透明性の向上、軍隊の民主的統制、平和維持活動・救援活動の要員訓練・演習などでの協力・情報交換を義務付けました。これにより、一部東欧諸国とNATOの間の軍事協力が大いに進展しました。http://www.enjoy- l.com/K/SY/00471.html

北大西洋条約機構(NATO)と他の欧州諸国ならびに旧ソ連構成国の24ヶ国との間の信頼を醸成することを目的とした取り組みのことである。全加盟国(NATOを含む)により、NATO内部の一機関である欧州・大西洋パートナーシップ理事会が構成される。略称はPfP。ja.wikipedia.org/wiki/平和のためのパートナーシップ

これほど多くの国家が参加しているとは思っていなかった。アメリカが3万人増派すると言うので,今回これを取り上げたが,それにしてもすごい数だ。更に不思議なのは,なぜこうまでしなければならないのかと言うこともある。これについては明日以降になる。今日の文章の中にも「アメリカ並びにNATOのパートナーの疑いのない特権」と言う言葉が出て来たが,そこのところを我々は考える必要があるそうだ。今日はここまで。




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2009年12月21日

地域研究と日本について5

昨日はおばあちゃんと下の愚息が妻の妹のいるアメリカに行ったので寂しくなった。上のお兄ちゃんがカナダからクリスマス休暇で帰ってきた。スケートの後は午後一日、勉強ができた。この「地域研究と日本について」は今日で5回目だが終わりだ。イラクの戦争だが,その文化を知っている人がいないと言うところから始まる。昨日は西欧人の東洋人に対する理解はまだまだ偏見があると言うことも言っていた。そうはいっても、アメリカ人は日本人より,こうして他国のことを理解しようと努力をしている。アメリカ人がグローバル化しているかと言うとそうでもないが,この論文を読んでいると日本人よりましに違いない。さて始めよう。

さ て、この2004年に何が起ったかといえば、このすべてのことに対して,実に、ちょっとした反発があった。とりわけ、イラク戦争があったので。我々がイラクに侵略した時、それを民主的にやろうと主張したが,アメリカ軍の中ではたった4人だけがアラビア語を自由に話せ,アラブの慣習をいくらか知っていた と言うことを発見した。イラクにおける我が軍はすべての目的と意図に対して,文化的にメクラであった。そこで、今まさに,大学ではアラビア語,パシト語、 南アジアの言語にたいする博士の非常に大きな需要がある。しかし、このことが再び,国民の関心の課題として持ち上がって来ている。

井尻:私が1980年代にバークレーのあなたの生徒であった時にあなたがよく言っていたのは我々は理論家と地域専門家との違いを知らなければならないと言うことだった。そして、未だに今日,多くの理論家がいて,様々な国家については殆ど何も知らない。彼らはその国に対して学説を立てるのは勝手だが。たとえ ば、Joseph Nyeは理論家であるが,始めは朝鮮にあまり関心を払わなかった。そして、彼がまさに北朝鮮を発見したのは金正日と原子力があったからである。あなたが我 々に言って来たことは我々は何がこの地域で起って来ているかを本当に理解しなければならないと言うことだ。

Johnson:私自身のキャリアでは私はいつも、実証的研究をして来たが,それをより普遍化する必要性を感じて来た。こうして私の最初の本ではそれを農民の民族主義と呼んだが,それは中国ではない。そして、私はその一章で,第二次大戦における、ナチ侵略の背景において,ユーゴスラビアの内戦で、この民族主義を比較した。それはまだ私にとっては興味があることで,ユーゴスラビアの崩壊と挫折とともに私の理論は覆えされた。民族主義はユーゴスラビアを統一することは出来なかった。クロアチア,セルビア、ボスニアのアイデンティティ−を乗り越えて,戦時中のユーゴスラビアではそれが出来ていた。しかし、チトー の死とともに,それは崩壊し,分裂した。中国でそれが起こるとは思わない。

私の最初の本:Peasant Nationalism and Communist Power: the Emergence of Revolutionary China, 1937-1945, (Stanford University Press, 1962).
田中文蔵
訳『中国革命の源流――中国農民の成長と共産政権』(弘文堂新社, 1967年)

John Fairbankが戦争と革命の後に、中国に戻った時に、私は彼に最も衝撃を与えたことは何かとかって聞いたことがあるが,彼は「国民の役割の承諾だ。」と答え、「あなたが今日、中国を旅行して、人々は『私は中国人だ。』と言っている。1930年代には彼らはあなたに彼らの性を名乗っただろうし,もしくは彼らは彼らが住ん でいる地域の名前を言っただろう。」

John King Fairbank ジョン・キング・フェアバンク:アメリカの中国研究者。ウィスコンシン大学、ハーバード大学、オックスフォード大学に学ぶ。1932年ローズ・スカラーとして北京に行き、翌年、清 華大学講師となる。1936年以来77年までハーバード大学に勤務。1939年、同僚のライシャワーと合同授業を開始して、アメリカの東アジア研究の礎を 築く仕事に着手する。教職のかたわら、1941-46年の間ワシントンで戦略情報局・戦時情報局などに勤務し、中国で米国大使特別補佐官、米国広報文化局 所長を勤める。1955-73年ハーバード大学東アジア研究センター所長、また全米アジア学会会長、米国歴史学会会長などを歴任。主著 The United states and China(1948)をはじめ二十数冊の著書と多数の論文がある。 http://www.msz.co.jp/book/author/14929.html

井尻:我々が地域研究の課題に関して東京外語大学での会議で,ある教授が主張したのはいつも「他人であること」と言う概念を持つことが極めて重要だと言った。我々は我々が研究している人たちとは同じではない。

Johnson:それは面白い。と言うのは他人であることとはまさしく、Edward Saidの論評の核心であるからだ。

エドワード・W・サイード(Edward Wadie Said, 1935 - 2003)は、パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。主著の『オリエンタリズム』でオリエンタリズムの理論とともにポストコロニアル理論を確 立した。彼はまたパレスチナ問題に関する率直な発言者でもあった。ノーム・チョムスキーらとともにアメリカの外交政策を批判し、アメリカ国内で最大のパレ スチナ人とアラブ人の擁護者として発言を続けた。

サイードはオリエンタリズムの理論で最もよく知られている。彼は著書『オリエンタリズ ム』(1978年)において、西洋におけるアジアや中東への誤った、またはロマンチックに飾り立てられたイメージの長い伝統が、ヨーロッパやアメリカの植 民地主義的・帝国主義的な野望の隠れた正当化として作用してきたと主張し、オリエンタリズムの理論を打ち立てるとともにポストコロニアル理論を確立した。 サイードはオリエントとオクシデントのいずれのイメージも不要と考えて批判を行ない、論争を引き起こした。ja.wikipedia.org/wiki/エドワード・サイード

Saidはオリエンタリズムが若いフランス人や若いイギリス人に教えたことは中国人や日本人が生来、他人だと言うことだと言っている。Saidは文化の共感的な理解はないと主張している。このオリエンタリズムは文化の中に入る方法ではなく,共通の人間の社会問題を解決するための代替方法を見出すためである。そしてこのことは外部者には利用できない内部からの物事の本質を見抜けるかどうかの興味深い問題を提起している。

男が性の問題を研究すべきでないとは言わないが,女にそれを聞かないとすれば,まともじゃあない。間違いなく,女は内面にその物事の本質を持っているからだ。しかし、このことがその地域から追放された人々を地域研究から除外することを意味するかって?そんなことはない。

井尻:永井陽之助教授が常日頃言っていた言葉がある。われわれは我々が研究していることへの私心のない愛着が必要だと言うことだ。

永井 陽之助 (1924 - 2008)は、日本の政治学者。学位は法学博士(北海道大学)、東京工業大学・青山学院大学名誉教授。東京大学では堀豊彦に師事。当初は政治意識の研究など、政治学・政治理論研究にその重点を置いていたが、ハーヴァード大学での在外研究中にキューバ危機という米ソ二大国間のパワー・ポリティクスを目の当たりにし、強い衝撃を受ける。

一方で、依然として日本国内ではそのような権力政治的要素を等閑視し、イデオロギーに規定される形で国際問題についての硬直化した議論が行なわれていることに不満を感じたことから、国際政治に関する研究・評論を開始、『中央公論』1965年5月号に発表した「米国の戦争観と毛沢東の挑戦」で論壇にデビューする。同時期に論壇に登場した高坂正堯とともに、現実主義の立場から日本外交を論じ活躍することとなる。

核時代の権力政治という状況への注目から、いわゆる非武装中立主義だけでなくタカ派に対しても批判的であり、1980年代前半の米ソが厳しい対立状態にあった「新冷戦」期には、岡崎久彦らを軍事力を行使可能な手段として過大視する「軍事的リアリスト」として批判、一方で軽武装・経済重視の戦後日本外交を「吉田ドクトリン」と名づけ高く評価し、岡崎との間に「政治的リアリスト―軍事的リアリスト」論争を展開した。その評論活動に対しては専門外の人間からの注目度も高く、三島由紀夫、福田恒存などからも高い評価を受けていた。ja.wikipedia.org/wiki/永井陽之助


Johnson:ここで私が最も重要だと思うことを追加しよう。大学の中の若い人々の規律として高い重要性があることの一つに、突き詰めて言えば,自分自身の社会についてもっと勉強しなければならないと言うことだ。永井の考えに全く同意する。すなわち、あなたが理解しようとしている他の社会にあなた自身を置かなければならないと言うことだ。しかし、その過程の中で,あなた自身があなたの社会から離れて,もはや、単なる政治権力の家来ではないと言うことを理解し始めなければならない。

井尻:バークレーについて偉大なことの一つに,バークレーが比較政治学に置いて,極めて強いことであった。

比較政治学(Comparative politics)とは、比較制度論から発展した政治学の一分野。世界各国・地域に様々な形で存在する政治制度・政府の形態・支配関係・政治体制を、その国・地域の歴史・文化・地理・国民等のテーマと関係させて、また民主化を含む政治変動、国家社会関係、アイデンティティと民族の政治観、組織の分析、政治経済学のようなテーマとも関係させて分析・検証し、異なる形態を持つ政治形態を対比することで、政治に関する一般的理論を構築しようとする学問のこと。ja.wikipedia.org/wiki/比較政治学

そして、アメリカの政治科学に於いて,全体として,比較政治学は国際関係論よりも強固で,比較政治学は地域研究により密接に結びついていると思う。日本では比較政治学はあまり発達しおらず,その一方で,国際関係論が大きな分野となっている。大学の私の仲間は「地域研究」と言う言葉すら本当は使いたくないと 思う。

Johnson:その代わりにどういう言葉を使っているのか?彼らは自分自身を理論家と呼んでいるのか?それとも国際関係論の理論家もしくは比較政治学の教授か?

井尻:幾人かは歴史家であり,彼らは自分たちのことを歴史上の地域の専門家と呼んでいる。

Johnson:そうか。だから、彼らは自分たちのことを比較政治学の教授とは呼んでいないんだな。

井尻:そうだ。彼らは政治科学者ではない。あるものは自分たちのことを国際社会の専門家と呼んでいる。

Johnson:国際社会とは何か私にはわからない。私がそれを聞いたら,きっと「オー、国連の専門家か。」と思ってしまう。同時に,立派な中国センターより今日の日本の方が論理的だとはおよそ思えない。中国は様々な視点を一緒にして,それらは経済学,政治学,歴史,文学、言語教育であり、また脱共産主義であった。中国に於ける共産主義は今日、死に絶えたと言うことだ。勿論、党は死んではいないが,中国は日本から研究され,東アジアの強力な隣国として扱われる必要がある。

同様に,質問したいが,日本には朝鮮を研究する機関はあるのか?朝鮮人が思い込んでいるのは、私は彼らに同意するが,日本人が朝鮮人を好きであろうとなかろうと,彼らは自国のことを良く研究していると言うことだ。朝鮮は研究するに重要な場所だと思う。

井尻:対談が終わる前に,必ずしも地域研究と言うことではないが,地域に入って行こうとしている日本の様々な学部の人たちへの助言はないか。地域研究の将来において、どのような進展をあなたは考えているのか?

Johnson:さて、私は若いアメリカ人に対して,理論的に答えようとしたことがある。このアメリカ人はJETプログラムで日本に行ったのだが,このプログラムは文部科学省が言語の先生として,高校の英語のネイティブスピーカーを派遣するもので,その後戻って来て,彼らがどのように日本に対する関心を追求するか疑問に思う。私が彼らに対する議論と言うのはもし彼らが学究的なものとして仕事を求めていたとしたら,問題だと言うことだ。私の見方として,多分あなたはより賢いから,他の違うキャリアを考えるだろうし,そこから、我々の住む極めて複雑な世界を観察することが出来るからだ。

そうした キャリアのうち最も良く知られている2つのものは外交官とジャーナリストだ。双方とも容易ではなし、成功の保証もない。しかし、我々は今日の大学がまた, 非常に複雑で,大きく,しばしば非常に意地悪く、冷酷な機関であることも理解しなければならない。いま、あなたがなんとしても、大学で働こうと決めているのであれば,一般的に言えば,歴史部門が今日,最も融通性があると言える。彼らが研究していることに対して,最も硬直的でないし,彼らが全面的に承認していないものでさえも、その創造性を最も認めてくれそうである。あなたが歴史部門で,全く優秀な学生であっても、同時に,ここは成長している分野ではない。 天才でもない限り若い博士の歴史家が仕事を見つけるのは容易ではない。

私がいつも学究的なことをしようとしている人々に言っているのだ が,アメリカので学究的な生活をするための秘密兵器は小さな一般教養課程の大学だと言っている。そこは良いコースを提供しているし,そこでの教授陣は研究するよりかは授業を行う方に重点を置いている。学生を引きつけようとするためである。多分,日本では同志社のようなところが私が心に描いているものに一番近い。しかし、そのようなところに働くとなると,あまりお金をもらうことが出来ないので,もしかしたら,あなたは辞めることになるかもしれない。

井尻:日本のシステムにも同じことが言えると思うか?すなわち、日本の学会にも?

Jhonson: 以前からそうだが,日本の学究生活についてはあまり良く知らない。私が知っている殆どの人たちは私のように退職している。しかし,日本に於ける問題はたぶんアメリカと似ているように思う。大きく重要な大学ではいまだに、教授に付帯した多くの威光があり,これらの大学が有効に機能しているかについては多くのフラストレーションがある。バークレーとかハーバードのような場所について興味深いことは、東大もそうだが,しばしば、教授より聡明な極めて優秀な大学院生を引きつけていると言うことだ。

バークレーでは認めてもらうために一生懸命勉強する学生がいたが,時々,そうした学生が私のところに来て,「私は卓越した教授にあったことがないので、失望している。」と言うことを聞いたことがある。その時に私が答えたのは「お前は馬鹿だな。ここで提供されている一番のコースは昼飯だ。君の仲間の大学院生と知り合いになれ。」そして、勿論、東大でも学生がしていることだ。同時に認められた人々は一生の友人なれるし、ものすごく、賢くなれる。

井尻:今日,日本における地域専門家に関してであるが,日本の知識人はまた、合理的な選択理論などに極めて関心が高い。

Johnson: 明らかに日本は我々がするような方法とは極めて異なったやり方で,中国を見ている。地域専門家の特徴の一つにあなたは独立した存在でなければならないと思う。私が私の分野に於いて,日本の大学を批判するとすれば,知的な潮流を探す場合にアメリカを模倣する悪い傾向がある。彼らはどんな仕事をするかとか何が道理にかなっているかと言う見地からではなく,ハーバードやバークレイがやっていると言う見地からしかものを考えない。

しかし、すばらしい日本の地域専門家はいる。たとえば、現在,北朝鮮に関して研究している人々で,彼ら自身は政府から、また知的な潮流から独立していて,彼らは彼らが正しいと 思っていることに対して、厳密かつ正確に専念して来ている。ある人々は得られるところからしか情報を得ていないので,彼ら自身のやり方の中によりどころとなるものが何もない。

私は日本の地域専門家が情報を集め、重要な課題を選択することを強く勧める。今日,日本はいろいろな点で,優位なところを持っていると思う。遅いかもしれないが,明らかに,冷戦構造から日本は立ち上がって来たからだ。日本はこの冷戦からかなりの利益を得て来たかもしれないが,もし経済だけが不安定になると言う理由だけであれば、古い日米関係は終わりに近づいていると思う。

日本はアメリカ合衆国への市場参入を維持するためにアメリカの貿易赤字に資金を提供して来た。しかし、この問題の真相はアメリカの市場が巨大な世界市場に置き換わり,そして、日本がアメリカの市場にもうこれ以上依存しなくなるだろうし、特に,日本は中国に近接しているからだ。

井尻:研究の分野から見ると,中国には明るい将来があるが,日本はどうなるのだろうか。

Johnson: さて、私はあらたに、優れた地域専門家が日本には必要であり、日本が中国との敬意を表したリーダーシップをどう発揮することが出来るかを示すことだと思う。非常にたくさんの中国人が日本に勉強に来ているをの見ると極めて興味深い。彼らは日本での勉強を楽しんでいて,そして、しばしば、大変すばらしく数ヵ国語を話すことが出来るのだが,日本人が彼らをあまりよく扱っていないように思う。日本人は若い中国人をもっと受け入れるべきであると思うし,なぜなら ば,中国の中国人は日本を好きでないかもしれないが,日本にいる彼らは日本人が戦後に達成したことを賞賛しているからだ。

日本の大学の最大の好機の一つだと思うが,中国の学生を本当に歓迎するプログラムを取り上げることであり,彼らは現代の科学ばかりか現代の知的な考え方を勉強する機会を求めている。このことは日本人がするべきことで、完璧に道理にかなったことだ。

シ ンガポール人も中国と取引をする上で,彼ら自身の得意分野を見出そうとしている。彼らが決めたのは生物医学分野で,中国人はこの領域にアクセスしようとしていて,その教育,分子生物学に於ける製品,現代薬学などである。しかし、日本の医薬産業は非常に長い期間、シンガポールよりも極めて高いレベルで開発さ れていきていると言わなければならない。さらに、今日,中国ではたくさんの金持ちがいて,彼らは健康に問題があって,ここには高所得者層向けの特殊性が あって,そこで中国が日本に追いつくにはまだまだ時間がかかるだろう。

だから、今日,中国がどのように進化するかについては限界があると思う。東アジアでの国際関係がどのように発達して来たかについて、今までのところ,私は彼らが得て来た成長している力にかなり、感銘を受けているが,しか し、今後,その力をどのように慎重に使うかだろうかにかかっている。私はまた,自民党の独占体制が壊れた時に日本の政治システムがどのように開発するのかを考えだすために、日本の地域研究が幅広に展開されるべきであると思う。

以上でこの論文が終わりだが,中国人の話と言い、自民党の崩壊の話と言い、2005年に書かれたとは思えない鋭さがある。経済関係だけが影響しあうのであれば,もう今までの日米関係は終わりだとも言っている。日本はそう言う意味では新たな模索を始めなければ行けないのかもしれない。日本の経済も,日米ではなく,日中になっている事実を真剣に考えなければならない時に来ている。また、日本に留学している中国人の扱いに問題があるとも言っている。うまく受け入れてないと言っている。それと、日本の技術は中国に対してうまく活用できないでいるが,ここでの医薬の事例は面白い。自動車のエンジンのコストが2倍だから売れない。どうするかを示唆している。

民主党がどう展開するのかにあたってはかれは日本の地域研究が必要だと言っている。今までの政治システムを壊そうとしているが,その新しいシステムがなんであるのかに投資して来ていなかったのは事実のようだ。私は政治家ではないし,政治評論家でもないが,何でもかんでも日本人が日本のことを行うのはもう限界であることは間違いない。そこにまだ、殆どの人が気がついていないことが問題だ。頭が固いと言うよりも,頭が鎖国状態だからだろう。

さて、明日からはホットなテーマだ。アフガニスタンだ。私が今読んでいる本で,倉前さんが1983年に出版された本を読んでいるが,そこに1979年にソビエトがアフガニスタンに軍事介入を始めたくだりがある。30年近く前に書かれた本だが,またそれが繰り返され,しかも今度は50ヶ国以上がこのアフガニスタンに参画し,アメリカが更に3万人も増派すると言うのがこの12月だ。アメリカ人の考えを是非聞いてみたい。

「偉大なゲーム:アフガニスタンにおけるアメリカとNATOの戦争 一国の戦争地域の中の50もしくはそれ以上の国々」
The Great Game: U.S., NATO War In Afghanistan
Fifty or more countries in a single war theater
by Rick Rozoff December 5, 2009

では今日はここまで。
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2009年12月20日

地域研究と日本について4

この論文は明日で終わるので,次のテーマを考えている。再びGlobal Researchから論文を引用しようと思っている。次回も興味を引くテーマを選んだ。ウィキペディアは内容が難しいので,しばらくはお休みだ。次回からのテーマは最もホットなアフガニスタンをテーマに取り上げよう。

「偉大なゲーム:アフガニスタンにおけるアメリカとNATOの戦争 一国の戦争地域の中の50もしくはそれ以上の国々」
The Great Game: U.S., NATO War In Afghanistan
Fifty or more countries in a single war theater
by Rick Rozoff December 5, 2009
http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=16422

さて、まだこのテーマは2日間は続くので,早速始めよう。歌劇とかが出てくるがシナリオは各自調べてほしい。意外な内容だ。ここでは引用しない。

Saidの議論は西洋人はイスラム世界を彼らを満足させるように定義し、しかし、その文化を侮辱した。例えば、我々はモーツアルトの歌劇「後宮からの逃走」があるが、これは危険なトルコ人が西洋の女性を捕まえて、性的に酷使しようとするはなしである。もしくはロッシーニの「アルジェのイタリア人」も同じだ。Saidは確かに正しいと思う。しかし、同時に、また、彼が東洋の考えを植え付けようとして「オリエンタリズム」の重要性を評価しようとしているとは思わない。

東洋は確かに、かなり魅力的であり、例えば、偉大なロシア・バレー 「ラ・バヤデール」がある。同様に、Saidの固定観念に適合した東アジアの芸術作品の大きな領域がある。プッチーニの「マダム・バタフライ」もしくは 「トゥーランドット」がある。ここでは明らかに西洋人の固定観念と西洋人の価値観が日本もしくは中国の社会の中に無理に押し込まれているとあなたは言うかも知れない。同時に、プッシーニはアジアの文化の多くの要素を再現し、それが害毒を及ぼしたり、観念論的であるとは決して思わない。

しかしながら、Saidは大量の証拠を提供していて、特にフランスとイギリスの情報源だが、人種差別を示唆した中近東に向けての態度についてである。このことはまた今日の東アジアとアメリカとの関係の重要な要素でもあると思うが、十分にカバーされていない。すなわち、アメリカの大衆は特に女性に対する暴行に対して、沖縄のような場所において、アメリカ軍によって作り出されたおびえた状況を完全に理解していない。沖縄に関してのアメリカの古典的な戦後のフィルムの一つに「八月十五夜の茶屋」 The Teahouse of the August Moon (1956)があり、Marlon Brandoが沖縄で出演している。

昔に戻って、そのフィルムを今見てみるとあなたがアメリカ人であるならば、顔をしかめさせる事がある。そこで、文化的な偏見にこうして気づく事はアメリカの大学の中では特に、人類学において、きわめて、大きな影響を与えている。これらは経済学とか政治科学ではないけれども。しかし、この文化研究においては、Saidの作品のあとのオリエンタリズムと呼ばれるようなものへの危険に対してきわめて神経過敏である。

地域研究に対するより重要な挑戦とは、---それと戦って深く関わって来たし,とりわけ、私自身の政治科学のに影響を与えて来たのだが,---それは計量経済学の影響である。 地域研究は理論的ではないとか,理論の壮大な体系を分かち合うとか言うものではないと言う非難がある。さらに、中国語や日本語のようば言語を勉強するのは時間の無駄だと言う議論がある。こうした気難し屋に従えば,良い学者に必要なものは抽象理論における知識になってしまう。

もし彼が理論を理解するならば,彼はいかなる場所も研究することが出来ることになる。彼が東アフリカに行こうが,イラクに行こうが。なぜ今日第二次大戦と比較して著しい差異がある理由の一つである。この戦争の時にはアメリカ合衆国は少なくとも日本のことはあまり知らなかったと言う認識を持っていた。 我々は戦争を遂行するために日本語を読めるより多くの人材を必要としたことは認識していた。我々は本質的に中近東にはメクラである。

今日,政治科学部門は極めて複雑なモデルを持っていて,しばしば,計量的であるが,我々が多分成果を推論することが出来る公式なものだ。現在,これがどうして生じたのか説明する数多くの様々な方法がある。しかし、ノーベル賞はある程度は,責任があると思う。ノーベル賞の受賞者は名声があるので,教授クラブとか研究機関を支配し,ノーベル賞科学と呼ばれるものに向けて,すべての基礎研究を牛耳っている。私の意見ではこのようにして,一つの分野として,経済学をだめにしている物事の一つに経済学にノーベル賞を与えると言う決定がある。

経済学はもともと実地経験に基づいた社会科学であった。そこで、学者は人々がどのように生計を立てているのか、完全雇用、労働の移動に関心を持っていた。今や,経済学は応用数学の形態をとっていて,そこでは経済的な関係は連立方程式で表現されている。この経済学はいかなる制度をも包含せず、地球上のいかなる地域社会にも適用しない。そして、このことは誤解を招くばかりではなく,究極的には価値のないものだと思う。

それにもかかわらず、経済学のノーベル賞は政治科学において,多くの嫉妬を造り出している。政治科学で起っていることは、思うに,経済学で起ったことを間違って,そっくりまねる試みであった。経済学で起ったことはアメリカの経済をモデルとして考え,それを数値化し,すべての経済学がそうあるべきだと言う状 況として具体化することであった。合理的な選択の理論ではアメリカの民主主義にそのようなものを行う試みであった。政治科学の博士は今日、合理的な選択の理論、ゲームの理論、経済モデルの操作、帰納的よりかは演繹的な分析方法によるモデルの公式の創造における能力の見地から学位を取る人が増えて来ている。

今日,地域研究はアメリカの大学では追求することが難しいと言わなければならない。事実,地域研究を行いたいと本当に思っている人がいれば,それは密かにやるべきであり,あなたが,大学での地位が保証されるまではあなたが言っていることについては極めて注意深くしなければならない。あなたが大学での地位が得られたならば、あなたはあなた自身の研究に関心のあることを決めることが出来,あなたが選択することが出来る。ということはあなたがどんなに有名になろうとも正教授に昇進することは決してない。

西欧人の東洋人に対する理解はまだまだ偏見があると言うこと。最近のアフガニスタン、イラクでの戦争では第二次大戦と違うのはそこの文化を知っている人がいないと言うこと。ノーベル賞が地域研究を阻害していると言うこと。なるほどと思う。今日はここまで。








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2009年12月19日

地域研究と日本について3

あっという間に週末にあり,もう12月も19日だ。やっと今年も終わったと言うよりかは,待ってくれと言った方が私の心境にふさわしい。このブログも年内にはアメリカ企業のグローバリゼーションに入りたいと言っていたが,この中国、日本の地政学をもう少し突っ込みたい。29日から休みなので、その時は目が許す限りはこのブログの準備ができるので,うれしい。ともかくここ数日は超多忙なので,少しでも前へ進もうとして,努力している。チャルマーズ・ジョンソンは日本および中国を始めとした東アジア政治・国際関係を専門としているので,こうしたアメリカ人の中国観、日本観を調べてみたい。1月23日までグローバリゼーション研究会はないが,来週火曜日の22日は海野会があり私が今年始めて講師で,テーマはこのグローバリゼーションなので、時間があれば出席してほしい。今年の総括をしたい。さて始めよう。昨日は日本軍が野蛮だと言う話で終わった。

さて、日本の軍隊については数多くの専門家がいる。日本の文化とか民族を引き合いに出す事なく、皇軍の慣習から単純に説明することができ る。私が知っている人で、石田武と言う人がいるが、彼は私にかってこう言った。彼は身をすくめずに「天皇陛下」と言う言葉を聞いた事がない。というのは戦争中、彼が軍隊にいた時に、この「天皇陛下」と言う言葉を聞いた時は彼が上官から殴られることを意味した。独り言のようだが、日本軍による野蛮な行為に対する当を得た良い説明のように思う。今日我々の多くはBenedictの本に異議を持っていると私は信じている。と言うのはこの本はあまりに理論的に引導しているからだ。彼女の有名な「恥」と「罪」の文化の区別はまったく人を納得させていない。我々が知っているのは日本人の社会に中に多くの犯罪行為があるのは事実だし、アメ リカの社会ではいつも恥がある。(Benedictはこの逆を言っている。私注)

地域研究に戻ると、戦争中におけるアメリカの地域研究の爆発的な増加があり、我々は日本と中国の研究の土台を得る事が出来た。彼らはその後も研究を続け、我々は数多くの仲間を大変効率的に訓練して来たし、彼らはネイティブ・スピーカーによって優れた教育を受けて来た。彼らの多くはSeidenstickerとRitchieのように、日本文化を西欧に翻訳するキャリアを積んで行った。

もう一つの爆発的な増加は冷戦時のロシア研究であった。その当時に研究した人たちが殆どこの地域研究のリーダになった。あらためて、ロシア言語の訓練が強調され、古典的なロシアの歴史と文学が学生の間に大変なブームとなった。しかし、強調されたのはソ連邦とソビエト共産主義であり、まさしく、バークレーでの中国研究センターのように、かっては私はそこの理事長であっ た。

我々はこのセンターを中国を研究するのではなくて、共産主語中国を研究するために作られた。我々が教えたのは中国語であり、近代的な 「国語」であった。我々は古典的な中国語は教えなかった。東洋言語の部門はその時までにはきわめてよく確立されていて、我々に対して、ひどく反対していた。 というのは我々は中国文明に根ざした本当の中国研究をしているのではなかった。さて、私はある意味で同意したのだが、我々は様々な点で、あまりに冷戦を考慮して、また、「敵を知る」為に必要とされる信念に動かされていて、我々は中国を敵と見なしていた。

そうであっても、私が言えるのは実際上、こうした地域研究プログラムのすべての目的は人々を訓練する事であり、ある意味ではこれらの人たちはこの地域と人々が好きであった。思うに、外国文化にたいする地域研究はその国が本当に嫌いであればきわめて困難である。今やそれもまったく正しいと言うことはない。ソビエト研究の特有な事の一つに、ポー ランド人追放の大きな影響があった。これらの人々はロシア人を本当に嫌いであったし、過去において、そして冷戦時代において幾度となくロシア人はポーラン ドを占領したからである。

冷戦の間に地域研究はすばらしい知的な基盤を作ったのだが、その資金源はフォード基金と国務省もしくはCIAが 間接的に援助している組織であった。1960年代にはこれに反対する大きな反動があって、日本の若い専門家の間で、日本研究に対しての反動もあった。今日、疑いなく、この指導的な人物はJohn Dowerで、彼は占領された日本の研究でピュリツアー賞を受賞した。

Dowerは日本の丸山眞男などの人々と一緒に、日本研究の戦後学派を攻撃し、この戦後学派は日本を成功した「近代化」の事例であることを強調していた。これはReischauerとMarius Jansenのようは人たちと連携した考えである。これに反対する人々はこうした人たちが日本の発展の歴史を書き換え、日本をアメリカ合衆国の安全で、しつけが行き届いた同盟国にしていると非難している。

丸山眞男:(1914 - 1996)は、日本の政治学者、思想史家。専攻は日本政治思想史。丸山の学問は「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ、経済史学者・大塚久雄の「大塚史学」と並び称された。マックス・ヴェーバーの影響を強く受けた学者の一人であり、近代主義者を自称し、または徹底した合理主義者と評される。ja.wikipedia.org/wiki/丸山真男

Reischauerは正しい幾つかのものを持っているかも知れないが、1931年から1945年の歴史を彼から取り除かなければならない。私は日本における軍国主義の歴史が筋道が通っていないとは決して言わないと言う丸山に賛成する。これは日本の歴史の筋道の通った一部であり、明治時代からの可能な道筋は複数あったと遡及することができる。彼らは1920年代の大正の民主政治となるが、軍部がファシズムの名の下に利用した、天皇崇拝のイデオロギーと「例外主義」に導かれていった。

例外主義:アメリカ例外主義( American exceptionalism)は、アメリカ合衆国がその国是、歴史的進化あるいは特色有る政治制度と宗教制度の故に、他の先進国とは質的に異なっていると言う信条として歴史の中で使われてきた概念である。その違いはアメリカ人の仲間の間で断定的優越性として表現されることが多いが、それには通常、歴史的時代や政治の流れに大きく依存して変化する証拠、合理化あるいは説明とされるものが付けられる。しかし、この言葉はアメリカの政治を批評する者達からは否定的な意味で使われることもある。

アメリカが世界の中心にあるという考え方に関する正当化は、過去にも現在にも他の多くの国が他の国とは異なる例外的性質あるいは使命を主張したのと本質的に類似していると論じている。イギリス帝国が絶頂期に在ったときのイギリス、イスラエル、ソビエト連邦、ナチス・ドイツが明らかな例外主義を主張したし、古代ローマや中国の ような歴史上の多くの帝国、および歴史に登場した広い範囲の小さな王国や種族も同様であった。それぞれの場合の根拠については、その置かれた環境や文化的 な背景と価値観、および自己の考える国の目的を引き合いに出して、何故その国が他の国に比して例外的であるかを表明してきた。ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ例外主義

他方、Reischauerはある意味で正しかったと思う。 丸山はアメリカが1945年に来るまでは日本にはまったく民主主義はなかったと言う。外見上からみても信じがたい事だ。日本の民主主義がまったくの偽物だ ということをあなたが議論したくないのであれば、我々はアメリカが民主主義を紹介したと言うことを信じる理由は何もない。我々は民主主義がすでにあったと信じる十分な理由がある。その根源は1890年の最初の議会の中に植え込まれていて、確かそれは大正時代で、MacArthurがやったのは軍国主義の障害を取り除く事とその国家を民主化する事を現地の力にゆだねた事である。

その時の地域研究の批判のもう一つの主要なテーマはつい最近亡くなったEdward Said教授の名前が想起される。彼の最も有名な著書は「オリエンタリズム」である。

エ ドワード・W・サイード(Edward Wadie Said, 1935 - 2003)は、パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。主著の『オリエンタリズム』でオリエンタリズムの理論とともにポストコロニアル理論を確立した。彼はまたパレスチナ問題に関する率直な発言者でもあった。ノーム・チョムスキーらとともにアメリカの外交政策を批判し、アメリカ国内で最大のパレ スチナ人とアラブ人の擁護者として発言を続けた。

サイードはオリエンタリズムの理論で最もよく知られている。彼は著書『オリエンタリズ ム』(1978年)において、西洋におけるアジアや中東への誤った、またはロマンチックに飾り立てられたイメージの長い伝統が、ヨーロッパやアメリカの植民地主義的・帝国主義的な野望の隠れた正当化として作用してきたと主張し、オリエンタリズムの理論を打ち立てるとともにポストコロニアル理論を確立した。 サイードはオリエントとオクシデントのいずれのイメージも不要と考えて批判を行ない、論争を引き起こした。ja.wikipedia.org/wiki/エドワード・サイード

今朝はここまで。日本の軍隊の蛮行に対して意見を述べているところが面白い。ここら辺のところはもっと勉強したいところだ。JPRI 日本政策研究所の論文をこの次も翻訳したい。この論文は今週末にはまだ終わらない。続きを読む

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海野 恵一
1948年1月14日生

学歴:東京大学経済学部卒業

スウィングバイ株式会社
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アクセンチュア株式会社代表取締役(2001-2002)
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