2010年09月

2010年09月30日

English14

昨日は元三井物産の副社長で、現在森ビルにおられる渡邊五郎さんとe-supportlinkの堀内社長、森田常務と会食をした。堀内さんとは以前、住商の有澤さんと会食したことがあったが,もう10年近くも前だ。少しも変わっていないので,懐かしかった。

先日、五郎さんが元FRBのボルカーさんと会うと言うので,このブログの「オバマ」の部分を読んでいただいた。5つ程、内容に誤解があったことを指摘された。改めて聞いてみよう。さすがアメリカに精通した五郎さんだ。

さて、今日はコロンビア大学教師で、The New Republic and City Journalの寄稿編集者のMcWhorter氏の続きだ。さて始めよう。

灰色のリスと赤い色のものがいる。;アメリカ英語とイギリス英語がある。いかなる実用的な感覚でもこれらは異なった動物ではな い。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  There are grey squirrels and red ones; there is American English and British English. Neither are, in any useful sense, different animals.

それゆえ、アメリカにいる黒人の子供は読むことを勉強するために黒人英語から標準英語に翻訳の練習が必要であると言う考えは方言の間であまりに多くの小さな違いを作り出すように、アメリカ英語を世界中の「標準」にする必要があるとする考えはそのような標準化の欠如が問題の幾つかの種類の源泉であったことを暗示している。

黒人英語のようにほっておくとどんどん方言が増えてしまうので,それがアメリカ英語を世界の標準にしようとしていると言う理由だ。注

Therefore, just as the idea that black kids in America need translation exercises from "Ebonics" to standard English in order to learn to read makes too much of a minor gap between dialects, the idea that American English needs to be imposed as a worldwide "standard" implies that the lack of such standardisation has been the source of some kind of problem.

しかし、(標準化の欠如)ということはあるのか?「トラック」と「ローリー(イギリスではトラック)」のような気取ったペアがどれほどあったとしても,イギ リス人とアメリカ人との間で,大きなコミュニケーションの問題はあるのか?もしくは、英語の方言がさらにもっと異なったとしても、どれほどの問題があるのか?

But has it? No matter how many cute pairs like "truck" and "lorry" one can come up with, what is the significant communication problem between Brits and Americans? Or, how much of a problem is it when English dialects differ even more?

アメリカに於いて,「彼はあなたに何も話そうとしていない。」という白人の労働階級の言い方は「He ain't gonna tell you nothin」だ。曖昧さがここだと言うところがはっきりしない。英国の北部ではそれは「He's noan going to tell you nowt」という言葉が出てくるかもしれない。再び,これは全く,ヘブライ語ではない。:理解するには、良く言っても,多少の調整が必要だ。ーそして、英語を話す人々にとっては,(この表現は)一層少ないと思う。

In America, a working-class white version of "He's not going to tell you anything" is "He ain't gonna tell you nothin'". It is unclear where the opacity is here. In the north of England that might come out as "He's noan going to tell you nowt". Again, this is hardly Hebrew: comprehension requires minor adjustment at best—and I assume even less for English folk.

確かに。英語はそれ(このヘブライ語みたいな英語)以上に踏み出すことが出来る。スコットランドではそれは「He wina tell thee onything」のようになる。;英国Cornwall地方特有の古い方言では「Aw bain't gwine for tell ee nawthen」となるだろう。しかし、確かに,このような方言はアメリカ英語を標準として提案している人たちには関係ない。これら方言のどれかを使って成長してきた殆どの人たちは(もしくは、言ってみれば,ジャマイカのフランス語の方言、もしくはハワイのピジン語」)もしより広い世界を取り扱うのであれば,あまり異なった方言を使っているとも言えない。そのより広い世界は身近な話題であり,たぶん、ー 散歩している時の話し方に対する反対運動はない。

方言はとんでもなく違ったように見えるが,世界から見ると,たいしたことはない。日々の生活の中での方言は世界から見ると取るに足りない。注

Sure, English can get further out than that. In Scottish that could come out as "He wina tell thee onything"; in the old Cornish dialect it would have been "Aw bain't gwine for tell ee nawthen". But, surely, dialects like this are not the concern of those proposing American as standard. Almost anyone who grows up using one of those dialects (or, say, the patois of Jamaica or the "pidgin" of Hawaii) can also perform in a less divergent one if dealing with the wider world. That wider world is the topic at hand, I presume—not a crusade against how people talk while they take walks.

結局、「公式なもの」としてのある種の英語を確立することは他のものを軽蔑する理由を確立する手軽な方法である。ー そのように指定することによって、階層的な側面は避けることが出来ないだろう。そして、何のために?

Ultimately, to establish one kind of English as "official" would be a handy way to establish a reason to look down on the others—the hierarchical aspect of such a designation would be unavoidable. And for what reason?

地獄郷の英語を使用する王国を想像し,そこでは我々は「イギリスの綴りのcentre(中心)」のスペリングに対して,そして、アメリカ英語の「good parts」の代わりに「なぜあなたは私にいいところ(the good bits)を少しも残さなかったのか?」といって、人々の手を叩く。

Imagine a dystopic Anglophone realm in which we smack people on the hand for spellings like "centre" and for saying "Why didn't you leave me any of the good bits?" instead of the American "good parts".

もう一つ:いいや。イギリスとアメリカ英語は別々の言語になる道を歩むと決めてかかると言う理由はない。それは1000年以上も前からあったであろう。「何が言語であるか。」と言うような書籍の中に標準形式を確立するための印刷、マスメディア、広く広がった識字能力がある前に。しかし、ひとたびこれが起こってくると,話 し方は極めてゆっくり変化し,そして、特に,書籍の中では氷河のように大変遅い。

One more thing: no, there is no reason to assume that British and American English are on their way to becoming separate languages. They would have been a thousand years ago, before there was print, media and widespread literacy to establish standard forms on the page as "what the language is". But once this has occurred, speech changes much more slowly, and especially glacially on the page.

Shakespeare は5世紀も前からは,英語を話す人と談話をすることさえ出来なかった。;我々は500年後に公演で,Shakespeareの言葉を楽しむことが出来る。 理由がある。これでどうだ。:Shawは1950年に死んだ。そして、死ぬ遥か前の彼の意見を残した。イギリスとアメリカはその時から今までにより異なっていると言う何らかの兆候があるのか?

Shakespeare could not even have conversed with English speakers from five centuries before; we can enjoy Shakespeare's language in performance 500 years later. There is a reason. Try this: Shaw died in 1950 and made his comment long before that. Is there any sign that British and American are more different now than they were then?

如何なる場合に於いても,アメリカ英語がイギリス英語よりも世界 中に今や,より活力があると言うことを誰もが確立する必要があると言う程度に於いて,基本的に,彼等はそれに満足することが出来る。我々がアメリカであったわずかばかりのヨーロッパ人でさえ、アメリカ英語ではなくイギリス英語を学んで来ている。

言い回しがくどいが,ただ単に,アメリカ英語がイギリス英語より活力があると言うだけであって,ヨーロッパ人は依然としてイギリス英語を学んでいるので,アメリカ英語がそれほど,普及している訳ではないと言っている。注

In any case, to the extent that anyone needs it established that American English now has more juice worldwide than British English, basically, they can be content that it does. Ever fewer Europeans we meet in America have learned British as opposed to American.

アメリカのポピュラー音楽は世界中の放送設備から流れている。ゆりかごから世界中の人々にそのなまりを刷り込んでいる。(世界中の誰もがKanye West'の"Gold Digger"をDavid Cameronのなまりで歌っている人はいない。)

American pop trickles out of PA systems all over the world and imprints its accent on people worldwide from the cradle (nobody on the planet is chanting Kanye West's "Gold Digger" in David Cameron's accent).

最近、コペンハーゲンの広場で,ストリート・パーフォーマーを見たが,デンマーク語でなく英語で,しかもアメリカ英語で,すべての出し物をしていたが,目をしばたたく人はいなかった。

Recently I watched a street performer in a public square in Copenhagen doing his entire act not in Danish but in English, and American English, with no one batting an eye.

それゆえ,我々はこれによって,何も宣言する必要がない。既にアメリカ英語はその通りであり,そして、それを紙に書き記すことは積極的な決着を持つものではないだろう。ー そして、それは幾つかのマイナスのもの以上のものではある。

We therefore need hereby declare nothing. It already is what it is, and putting it on paper would have no positive consequences—and more than a few negative ones.

コロンビア大学教師で、The New Republic and City Journalの寄稿編集者のMcWhorter氏はこれで終わり。さすがに言語学の教師であり,英語がやたらと難しかった。今日はこれでおわり。





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2010年09月29日

English13

昨今の尖閣諸島の中国の日本への対応は目に余るものがあり,日本の対応も忸怩たるものがある。私の商売は大連なので,こうした問題は今まで発生したことがないので,心配はしていないが,今後のお客様のことを考えると,新たな商品を考えざるを得ない。

以前から考えてはいたのだが,日本で中国人を利用して,業務革新を行う方法を実施する。今回の問題が発生する前からいずれは行おうと思っていたので,突然沸いた考えではないのだが,早急に実施しようと考えている。

方法は今までの弊社のBPOと一緒だが,仕事を大連に持って行かない。中国人が日本に来て,3ヶ月から6ヶ月ぐらいBPOの時と同じように引き継ぐのだが,その結果を,今までと同じ社員が引き継ぐことにする。それで30%の生産性を向上させる。後戻りする可能性があるので,仕事の監視は継続する。

対象の職場の人たちは今までの仕事のやり方を変えることに抵抗を示すが,弊社の今までのBPOの経験から言えば,それは最初の2週間ぐらいで,そのあとはだんだん社員も弊社の中国人と融和してきた。理由は今までの仕事の仕方が,「あうん」のため、曖昧なので,効率が悪いことがわかるからだ。こうした社員との軋轢はやってみなければわからなかったが,今までの実績で,そうした問題を解消することが出来ることがわかった。

又対象領域は人事経理総務だけではなく,営業,物流、購買,技術のすべての本社並びに工場の管理部門を含める。日本企業だけがこうした部門は殆どの仕事が非定型化、専門化していて、効率が悪い。こうした現象は世界でも日本だけだ。この課題を解消して行くのが従来からの弊社のアプローチで,世間で提議しているBPOとは実は全く違う。こうしたビジネスが今までなかったので,仕方なく弊社はBPOと称して来た。今回、全く新たな商品を提供できるようになったのはそうした経緯があったからである。

さて、始めは10人のエリアを3人の中国人が担当するが,ここでは非定型業務を定型業務化する。移行期間は3ヶ月から6ヶ月で,これをまず最初のパイロットとする。そのあとは20人に拡大して,最初の参画した中国人と最初の職場にいた3人の日本人が次の職場に参画する。この6人が次の20人の職場の業務革新を行う。こうして,3年かけて、2000人の本社の業務を30%効率アップしていく。

こうした新しい商品を今月から提供していくことにした。従来の商品はそのまま提供して行くが中国の政治が不安定なので,そうしたことに不安を覚える顧客のためにこの新しいメニューを提供することにした。ともかく日本企業の本社と各工場の管理部門の生産性は「あうん」のために世界のどこよりも30%生産性が悪い。それを何とかしなくてはならない。

それを今から変えておかないと,景気が良くなっても,コストの圧迫要因であることに変わりはない。以前コンサルティングでこの部分を業務革新して来たが,3年もするとまたもとに戻ってしまう。今回のこの提案では業務フローを変えてしまい,かつきちんとフォローをしてくので,効果が消えてしまうことはない。出来れば,弊社が提供している研修と抱き合わせで実行すれば、その効果はさらに発揮できる。人の考え方を変える必要があるからだ。これをどのように実行するかの仔細は近々ホームページに掲載するので,その仔細は又改めて連絡する。

さて、今日はコロンビア大学教師で、The New Republic and City Journalの寄稿編集者のMcWhorter氏だが、彼もやたら難しかった。さあ、始めよう。


John McWhorter
主客
Featured guest
John McWhorter  

アメリカ英語が世界で英語を話す人たちの間で標準にするべきだという宣言はむしろ英語がアメリカの「公式な」言語であるとの要求のようであり、典型的にはラテ ン系アメリカ人労働者が彼らの間でスペイン語ではなしているのを見るのは刺々しく不愉快であり、こうしたことが英語の衰えを脅かしているという付随した考えからの提案である。

A declaration that American English should be the standard among the world's English speakers is rather like calls for English to be the "official" language of America, typically suggested out of a prickly discomfort at the sight of Latino labourers talking among themselves in Spanish and an attendant notion that this threatens the eclipse of English.

「英語だけ」と言う努力は非現実的であり,(移民は絶えず母語の方がより満足するだろう。)そして、不必要だ。(彼らの新しい土地の母語の優勢を覆すことはできない。と言うのは彼らの子供たちは完全に英語を話すからだ。)

"English only" efforts are unrealistic (immigrants will always be more comfortable in their native languages) and unnecessary (they cannot upend the dominance of their new land's native tongue because their children will speak it perfectly).

同様に非現実的とか不必要と言うことは英語がわかる人の間の「公用語」としてアメリカ英語を銘記させる要求である。まずは非現実的な部分を見てみよう。方言は一つはなまりであり,一つは言葉づかいだ。なまりに於いて,その出身の英語がイギリス、オーストラリア、インド、シンガポールである人々にどんな使い方を要求すれば、アメリカのなまりに影響を与えるのか?

そんなことは出来る訳がないと言っている。注

Similarly unrealistic and unnecessary is a call for American English to be imprinted as "official" among Anglophones. Let us take the unrealistic part first. A dialect is one part accent and one part grammar. On accent, of what use would it be to require people whose native English is British, Australian, Indian, or Singaporean to affect American accents?

anglophone:英語を含む2か国語以上が話される地域で)英語使用者, 英語がわかる人

なまりは極めて排除することは難しい。ー フランス語、ロシア語、もしくはあなたが勉強してきた他の言語の中で良いなまりをマスターすることがどれほど難しいか、もしくは、我々が正確に良く真似ることがどれほど大事か考えろ。 と言うのはなまりは殆どの人間がしてこなかった何かに優れているからだ。我々と働くインド人の顧客サービスの営業マンはデルコンピューターに何か悪いところがある時にSteve Carellのように発音することを学ぶように我々は本当に提案しているのか?

Accent is extremely hard to eliminate—think of how hard it is to master a good one in French, Russian, or any language you have studied, or how we cherish good mimics precisely because they excel at something at which most human beings do not. Are we really proposing that the Indian customer-service reps we work with when something goes wrong with our Dell computers learn to sound like Steve Carell?

スティーヴ・カレル(Steve Carell, 1962年8 月16日 - )は、アメリカ合衆国のコメディアン・俳優・脚本家。マサチューセッツ州出身。

言葉づかいについては我々は全体の提案の中でその必要性が欠けていることにぶつかる。我々はGeorge Bernard Shawの古風な格言によって、楽しめるかもしれない。それはイギリスとアメリカは共通の言語によって,分かれた2つの国家であるると言うが、それは大いに滑稽だ。と言うのはそれ(共通の言語によって分かれた国家ということ)は事実でないことを知っているからだ。

彼はここでアメリカとイギリスの英語は共通言語では無いと言いたい。注

When it comes to grammar, we run up against the lack of necessity in the entire proposal. We may be entertained by George Bernard Shaw's grand old aphorism that Britain and America are two countries separated by a common language, but it is funny largely because we know it is not true.

あたかも我々がトルコ語か日本語を取り扱うかのように、明白な翻訳か理解の問題でなければならないと言う指摘として、言語の方言が異なると言う事実を取り上げるのは容易なことだ。しかし、実際の生活の中で,あたかも動植物の種別のように話し言葉の多様性はかなり異なる。

違う言語のように英米語を扱うことは仕方がないことだ。しかし、明日の議論ではこの方言も世界の言語の中で見るとたいした違いは無いと言うことを言っている。注

It is easy to take the fact that dialects of a language differ as an indication that there must be an outright translation or comprehension issue, as if we were dealing with Turkish versus Japanese. But in real life, speech varieties differ to degrees, just as species of flora and fauna do.

コロンビア大学教師で、The New Republic and City Journalの寄稿編集者のMcWhorter氏は今日はここまでだが,まだ続く。彼の話は含蓄があり,すんなりを先に進めない。時間が許せばよく考えながら読んでほしい。今日はこれまで。




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2010年09月28日

English12

昨日は一日中雨で本格的な秋になった。このブログも涼しいので,はかどるようになった。やっぱり秋は朝も夜も調子が良いようだ。気になるのは日中の尖閣諸島の領土問題だ。ビジネスが中国との関わりが深いので,尚更だ。レアアースの禁輸は日本に大きな影響を与える。今回の事件で,間違いなく日本人はますます中国人を嫌いになってしまったに違いない。

今の中国政府はアメリカのオバマもそうだが、力が強くない。そのために,国民に意識した行動を足らざるを得ないところがあるので,こうして強気になっているのだろうか。今までの中国の発言と行動はすべて国内に向けたものだ。それを過敏に日本が反応しているようにも見える。靖国問題と一緒かもしれない。そこで騒ぐから,ますます、中国は過激になってしまう。

どうすればいいのか。方法は一つある。アメリカと同様に,中国向けの大臣を中国人にすればいい。Locke氏は華僑2世の商務長官だが,日本にも蓮舫女史がいる。彼女を中国担当にすればいい。そうすれば、今回の問題をこじらせることはない。今の政府の要人には解決できる人は彼女をおいて他にいない。さらに日米安保同盟を改めて強化すればいい。日本の防衛を意識する良い機会だ。国民もそれを理解してもらえる時かもしれない。

日本人は三十六計を知らない。彼等の外交政策に日本人は戦術的に勝てないし,経済力でも、軍事力でも勝てない。アメリカはオバマの支持が低下しているし、アフガニスタンからまだ目が話せないから,日本を支援するために軍事行動には出られない。そこは、しっかり中国も読んでいる。さて、どうするのか。今のテーマとは違うが,今一番気になる問題だ。

さて、今日はオブザーバーの副編集長で「グロービッシュ」の著者のMcCrum氏の反論の続きだ。始めよう。

最後に私はー 現代のアメリカの文学作品の熱烈な崇拝者としてー Agnes氏のアメリカ英語の「文語」の特徴付けに反対しなければならない。まったくもう、Mark Twainが死んでから100年が経ち,William FaulknerやErnest Hemingwayはそれぞれ、1962年と1961年に死んでいる。

Lastly, I must take issue—as a passionate admirer of current American writing—with Mr Agnes's characterisation of the "literary language" of American English. For goodness sake, Mark Twain has been dead for 100 years, and William Faulkner and Ernest Hemingway died in 1962 and 1961 respectively.

いまやアメリカ文学に対する発言権はJunot Diaz and Zee Zee Packerのような作家に属している。ニューヨークで現在発行されている40歳以下の「もっとも将来性のある」作家のリストを見ろ。確かに,彼らは TwainやFaulknerを知っているだろうが,そのどれもがAgnes氏が言う媒体としての「アメリカ英語」の類いに関連しているとは言いがたい。

The voice of American literature now belongs to writers such as Junot Diaz and Zee Zee Packer. Look at the New Yorker's recently published list of "most promising" writers aged under 40. Sure, they will know their Twain and Faulkner, but hardly any will relate to that kind of "American English" as the medium Mr Agnes describes.

そうだ。ー そしてここで我々は再び共通点に進む。ー 新しい世代の現代の英語は「力強く、柔軟性があって,偏狭でない。」(ノルマン人(10世紀にNormandyを征服した古代スカンジナビア人)が征服し たとき、実際にはそのあとで、英語はかって「偏狭」であったか?)そして、そうだ。それはスリと泥棒とカササギであり,ー それはアメリカ英語に限定された品質ではない。

スリと泥棒とカササギ:シェークスピアの言葉。専門でないので詳細はわからない。マクベスにでてくる。すなわちイギリス英語にもシェークスピアのようにこうした「偏狭でない」特色はあると言うこと。注

Yes—and here we go again on common ground—the contemporary English of the new generation is "muscular and flexible, not insular" (when, actually, after the Norman conquest, was it ever "insular"?). And yes, it is a picker and stealer, a magpie—but that is not a quality limited to American English.

Agnesの最後の段落に関して,「cell」(携帯電話)のことを「mobile」という彼の考えに不信の目をむいて,私は彼が隠れ新英家ではないとおもう。

Reading Mr Agnes's final paragraph, which had me goggling in disbelief at his account of the use of  "mobile" for "cell", I find myself wondering if he is not a closet Anglophile.

たぶん、われわれはイギリス英語を回復させることに合意して,このディベートを解決しなければならない。しかしそれはノーだ。真実は世界がグロービッシュを使い、アメリカ英語は使っていないし,国際社会にこの退行する形式を課す如何なる試みは失敗する運命にある。

Perhaps we should resolve this debate by agreeing to reinstate British English. But no, the truth is that the world is using Globish, not American English, and any attempt to impose this regressive form on the international community is doomed to failure.

Agnes氏が「ここのしきたりにこだわらない。」ということを読んで私はうれしく思う。再び、採用する時であり,そして、19世紀がイギリスで,20世紀がアメリカなら21世紀は,,,グローバルであることを認める時だ。

I am glad to read that Mr Agnes does not "stand on tradition here". It is time to adapt again, and recognise that if the 19th century was British and the 20th century was American, then the 21st century is … global.

私は再びAgnes氏を引用して締めくくろう:「絶えず成長するグローバルな英語の普及は概して,目に見える障害はない。」まさに私の要点だ!

I close by quoting Mr Agnes again: "The ever-growing global spread of English in general has no visible barrier in sight." My point exactly!

私につき合いませんか?

Anyone for tennis?


オブザーバーの副編集長で「グロービッシュ」の著者のMcCrum氏の反論は終わった。今日はここまで。


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2010年09月27日

English11

いよ いよ10月が今週のスケジュールに入って来た。本格的な秋だ。毎年そうだが,夏の習慣がなかなか抜けない。いつの間にか寒くなって来たと言う感じだ。昨日は衣類の整理を行った。スーツを夏もの10着,冬物10着にしようと大分、捨てた。衣類はまだまだあるので,来週も行わないと整理できない。最近は本を殆ど全部捨てたが,今度は衣類で,これで終わりだ。さて、今日はオブザーバーの副編集長で「グロービッシュ」の著者のMcCrum氏の反論だ。彼の話も難しい。さて始めよう。

Robert McCrum
反対者の反論
The opposition's rebuttal remarks
Jul 7th 2010 | Robert McCrum  

Mike Agnesになにを言うべきか、もしくはどこから始めるのか見分けることは難しい。彼はなんと風変わりな討論者なのだろう。この多少巧妙な北アメリカ戦略はゲリラ戦争の学究版であり、あなたの反対者を混乱させ,出し抜くためなのか?我々はとても多くの共通点を持っているように思える。

It is hard to know what to say to Mike Agnes, or where to begin. What an odd debater he is. Is this some cunning North American strategy, the academic equivalent of guerrilla war, to confuse and outwit your opponent? We have, it seems, so much common ground.

彼が書いたものの多くは私がグロービッシュと呼んで来た英語の形式のために既にして来た議論を支援しているように思える。私が既に勝利を収めていると思うのは生意気だろうか?

Much of what he writes seems to lend support to the argument I have already made for the form of English that I have called Globish. Is it presumptuous of me to think that I have already carried the day?

例えば、すぐさま、Agnes氏が「英語をより一様にすることによって国際的なコミュニケーションを効率的にする利点」を促進すると言う文章に誰が反対することができるだろうか?」パチン!(指をぱちんと鳴らすこと。「その通り」と言う意味。)

For instance, right off the bat, who could possibly disagree with the sentence in which Mr Agnes promotes "the advantages of streamlining international communication by making it more uniform"? Snap!

ここで、我々を隔てているすべては手段についての議論であって、目的ではない。例えば,あなたが英語について、信頼出来るものとして、規定することができないし、そして、規範的な習慣は通常、広く一般に普及していると私は強く主張する。

この部分は文章自体が矛盾しているようだが,先のAgnes氏の規範主義を批判している。英語は規範的ではあり得ないが、一方で,人々は規範的な習慣を持っていると言っていて,英語を固定化するかどうかの議論は意味が無いと言っている。注

Here, all that separates us is an argument about means, not ends. I, for example, insist that you cannot, reliably, be prescriptive about English, and that normative habits usually prevail.

勿論、Agnes氏の幾分,彼の基本的な要点の簡明な労作を掘り下げて行けば,あなたはすぐに幾つかの疑わしい意見を見つけ,それは学究的な考えを提案していて,それはー 何というかー 最近は図書館もしくは図書館の専門的な閲覧席からあまり離れたものではない。

Of course, once you drill down into Mr Agnes's rather terse elaboration of his basic point, you quickly find some questionable sentiments, ones that suggest an academic mind that has—shall we say—not recently strayed too far from the library or the scholarly carrel.

2010 年に「アメリカ英語の時代が到来した。」と真面目に書いている人は誰でも、まず第一に、Bangalore, Manila, Rio de JaneiroもしくはJohannesburgを訪問しなければならない。そこでは、そして英語を話す世界にまたがって,あなたは新しい世代を見つける ことができ,彼らは実際にその世代が使う国際共通語に関しての選択をしたがっている。それは「歴史と過去の文化的な結びつきから独立している。」

Anyone who can seriously, in 2010, write "American English's time has arrived" ought, for a start, to visit Bangalore, Manila, Rio de Janeiro or Johannesburg. There, and across the English-speaking world, you will find a new generation which does indeed want to make a choice about the lingua franca it uses, one that is "independent of history and past cultural ties".

そのために私の言葉をとってくれ。:それは確かにアメリカ英語ではない。;それはグロービッシュだ。私は過去5年間に引き受けた現場の調査を基礎にしてこれを主張している。この私が述べて来たグローバルな(アメリカ英語に反対して,)英語はー 私を信じてほしいが,ー 規準である。

Take my word for it: it is certainly not American English; it is Globish. I assert this on the basis of field research undertaken in the past five years. The global (as opposed to American) English I have described is—believe me—the norm.

再び,彼の第二段落を参照すると,Agnes氏はもっと世間に出なければならない。これらの滑稽な英国系アメリカ人の誤解は先の世紀に於いては十分に現実的であったが,今や1980年代のくだらない連続ホームコメディだ。たぶん、Agnes氏は彼の「Frasier」や「Friends」(アメリカの連続ホームコメディ)のシリーズのセットを捨てて,北京の人民大学に私と一緒に来るべきであり、そこでは、毎週の金曜の夕方に、学生が集まって「英会話」と呼ばれているものを練習している。

Again, referring to his second paragraph, Mr Agnes ought to get out more. These comical Anglo-American misunderstandings, which were real enough in the last century, are now the stuff of 1980s sitcoms. Perhaps Mr Agnes should throw away his boxed set of "Frasier", or "Friends", and come with me to the People's University of Beijing where, every Friday evening, the students gather to practise what they call "English conversation".

それは「knocked up」(テニスの試合前にウォーミングアップする (笑))のまごつかさせる意味の違いを理解する英語の類いではなく,しかし、それはグロービッシュであり、(グローバル英語で,アメリカとイギリスの熟語,文法、構文を借りて来ている)若くて,中間層の中国人の強い願望にかなっている。

It is not the kind of English that would understand the embarrassing nuances of "knocked up" (ho ho), but it is a Globish (a global English, borrowing from American and British idiom, grammar and syntax) that serves the aspirations of young, middle-class Chinese.

私の弁論、言語学的な話はこれで終わり。

I rest my case, linguistically speaking.

オブザーバーの副編集長で「グロービッシュ」の著者のMcCrum氏の反論はもう一回続く。今日はここまで。





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2010年09月26日

English10

昨日は家族全員が一日中家にいた。珍しいことだった。私はそのために、一日休息することが出来た。さて、Wiley Publishing社のウェブスター新世界辞典の編集長のAgnes氏の反論だ。いよいよこのディベートも後半に入って来た。タイトルがEnglishなので、今までと違い政治がらみでないので,甘く見ていたが、結構難しい。さて始めよう。

 
Michael Agnes
提議者の反論
The proposer's rebuttal remarks
Jul 7th 2010 | Michael Agnes  

私の造詣の深い反対者の最初の視点は実際に私の立場を支持していると信じている。
Robert McCrumが引き合いに出している「英語」の特徴は特にアメリカ英語に起因している。「ボトムアップで機能するのか?」そうだ。その通り。結局、我々にFowler and Gowersを与えてくれたのはアメリカ英語ではなかった。

Henry Watson Fowler (1858-1933)
Sir Ernest Arthur Gowers (1880-1966)

Henry Watson Fowler (1858-1933) A Dictionary of Modern English Usage (1926) は、Sir Ernest Arthur Gowers (1880-1966) による小改訂 (1965) を経て、長らくイギリスの権威ある語法指南書として親しまれてきた。注

I believe my learned opponent's first point actually bolsters my position. The characteristics of "English" that Robert McCrum cites are particularly attributable to American English. "Operates bottom up"? Yes, indeed. It was not American English that gave us Fowler and Gowers, after all.

そのかわり、それはアメリカの辞書であり,言語の記述的な取り扱いの中に、勇ましく押し込んでしまい、過去の規範主義を拒絶した。McCrum氏は適切に、 特に、アメリカの随筆家や詩人を丁重に引用し,彼らはアメリカ英語は活力ある独立と不屈の精神を持って英語の起源から派生して来ていることを良く理解していた。

Instead, it was American dictionaries that bravely took the plunge into descriptive treatment of language, rejecting the prescriptivism of the past. Mr McCrum is gracious to cite, aptly, a specifically American essayist and poet, one who well understood that American English had diverged from its British origins with a vigorous independence and sturdiness.

規範主義:以下のような解説がネットにあった。

規範の成立 18世紀には、英語を固定しようとする動きが出てくる。

英語アカデミー設立の提案  Jonathan Swift, “A Proposal for Correcting, Improving, and Ascertaining the English tongue” 1712年 不成功に終わる。

本格的な国語辞書 1755年 Samuel Johnson, A Dictionary of the English Language 収録語数約4万。 標準的な語句を精選語義を従来よりも精確に定義し、語義用法を例証する引用文を一流作家から多数とり、出典を明示。慣用としておこなわれた綴字を提示し、その英語の固定化に寄与する。

http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ykawa/jafle.files/workshop_no5.files/urata.htm

彼は国の言語の力と説得力を十分によく知っていた。ますます民主主義の世界の中で,アメリカ英語はその代替手段よりも簡単により受け入れることができる。

ここで彼が言おうとしているのはイギリス英語と違って,アメリカ英語は規範主義では無いから,絶えず変化し,英語を固定化しようとはしないと言うこと。注

He knew full well the force and eloquence of the national tongue. In an increasingly democratic world, American English is simply more embraceable than the alternatives.

第二の点ではMacCrum氏が世界の文化と政策を促進するにあたって,アメリカにどの言語を使わせようとしているのか定かでない。アイリッシュの英語か?インド人の英語か?我々がこれらの多様性を持つことはそれほど良いことではない。勿論,我々はアメリカ英語を使う。

On the second point, I am not sure what language Mr McCrum would have America use in promoting its culture and policies in the world. Irish English? Indian English? We're not all that good with those varieties. Of course we use American English.

そして、コカコーラ植民地主義の運営は(すばらしく調和していて,)何か致命的な病気もしくは他の自然災害があなたの国を襲わなければすべてが結構なことだ。それから、アメリカの無比の寛大さが最も歓迎されているように思われる。あなたがワクチンの小瓶とか食品の木箱に書いてあるアメリカ英語であったとしても。非常に多くの英語を話さない人々がとりわけアメリカ英語を習おうとしているのは不思議ではないか?ーそれは彼らが我々の映画の中で聞いて,我々の著者の作品を読もうとしているその多様性にある。

ここではアメリカは寛大だから,たくさんの人が英語を勉強しようとしている。コカコーラ植民地主義は悪くないと言っている。注

And charges of coca-colonialism (lovely blend, that) are all well and good until some lethal disease or other natural disaster hits your country. Then the unparalleled generosity of America seems to be most welcome, even if it is American English that you read on the vaccine vials and food crates. Is it any wonder that so many non-English speakers want to learn specifically American English—the variety that they hear in our films and want to read in the works of our authors?

第3に、「世界がアメリカ英語にうんざりして来た」と主張するこ とは少しばかり誇張していて、ーそれは、時々、アメリカの政策であり,多分,言語ではない。このディベートの提案はMcCrum氏が彼の最後の段落で言ったように、アメリカが誰かに何かを課すことではないことをここで言及しておく。

On the third point, to claim that "the world [has] grown weary of American English" is more than a bit of a stretch—of American policy at times, perhaps, but not of the language. I note here that the debate's proposition is not about America's imposing anything on anyone, as Mr McCrum has it in his final paragraph.

むしろ、それ(提案)は英語を既に話す人々によってアメリカ英語をグローバルの標準としての自由な承認についてである。

私はMcCrum氏に「グロービッシュ」を新造語として祝おう。しかしながら、もしそれがこれから存在するのであれば,この英語の多様性はまだ、発達段階にあり、現時点でそれを採用するには(英語の多様性がそれを)全く実務的にしていない。私はイギリスに於いて英語を話す人たちがグロービッシュに群がることを想像することはできないし,アメリカに於いても同様だ。

我々は身近に、実行可能で、確固不動の、選ぶことの出来る多様性,なかでも、最も卓越したアメリカの多様性を持っている。

Rather it is about a free acceptance of American English as a global standard by people who already speak English. I congratulate Mr McCrum on "Globish" as a coinage. However, if it yet exists, this English variety is still in its formative stage, making it wholly impractical to adopt at the present time. I cannot envision English speakers in Britain flocking to it, or those in America. We have at hand viable, well-established varieties to choose from, most prominently the American variety.

以上で,Wiley Publishing社のウェブスター新世界辞典の編集長のAgnes氏は終わった。今日の話を読んで、感じたことであるが,チャイナモデルに於ける中国もアメリカ英語に於けるアメリカもこの世界に於けるグローバリゼーションをそれぞれの国家が意識していて,世界に君臨して来ている。そうした双方の国家に間に日本がどうあるべきかを今考えると,日本語と言うよりも、日本自体の国家のプレゼンスがどうあるべきかを問われているような気がする。

世界に対して,日本がこうした大国のような特色がないのは事実だし,そうしたメーッセージも出していない。今回の尖閣諸島の問題も腰砕けのような結果に終わってしまっているし,円高に対しての介入についても明快でない。いわば、筋が通っていないと言うか,国家に芯がない。今日はこれまで。

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2010年09月25日

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海野 恵一
1948年1月14日生

学歴:東京大学経済学部卒業

スウィングバイ株式会社
代表取締役社長

アクセンチュア株式会社代表取締役(2001-2002)
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