2008年10月27日
今日は快晴。調子は最高。
ヤフーの英文の記事の単語にカーソルを持って行くと訳語が出てくるのを今朝気がついた.たまたまif文の上にカーソルがあったからだ.最近のパソコンはすごいね.つまらない事かもしれないが、大いに感動してしまった.辞書を引く手間がものすごく省けるからだ.私の年になると、覚えるのに、10回はひかないと覚えない.その工数がなくなるからだ.今朝は体調は最高で、スライダーのベースまで削ってしまった.要するにいつもより、バイクがぎりぎりまで倒せてなおかつ倒したままの距離が長かったと言う意味だ.駐車している車がいなかったせいもある.
今朝は日本人が国際会議で発言できないと言う話をしよう.昨日、秋葉原で、麻生さんがはじめての街頭演説をしてたが、政治家で唯一彼だけだと思うが、国際会議で発言が出来る人だ。彼は1985年にはじめてお会いした.青年会議所のカルタヘナ世界会議だ.カルタへナは南米のコロンビアにある.いまから20年以上も前の話だ.当時はアクセンチュアではなく、まだ、アーサーアンダーセンだったように記憶している.当時の社長は白鳥栄一さんで、太っ腹の大人だった.なぜか。この世界会議で会社を3週間も休んでしまったからだ.
副会頭に立候補して、当選したから、さらに一週間当選したので、研修をしなければならない.通常であれば、会社が許すはずが無いが、白鳥さんはそれを黙殺して、許してくれた.カルタヘナから国際電話をしたが、さすがに社長は出てくれなかった.当時、後に社長になる村山が私の部下だった.それが幸いした.彼が私の留守を管理してくれた.彼と私の当時の上司、森さんが守ってくれた.サラリーマンとしては強運だった.上下で私の道楽を守ってくれる企業などまず無い.ましてや、アメリカの企業だ.いまアメリカで弁護士業をしている堀篭さんはかって私がアーサーアンダーセンに勤めていると言ったが、最後まで、信じてくれなかった。
アーサーアンダーセンに勤めながら青年会議所の会員を維持する事は不可能だからだ.ましてや、国際青年会議所の副会頭なんてあり得ない.その1年間はほとんどの仕事ができないからだ.1年の内合計で、3ヶ月ぐらいは担当国回りだ.担当国はインドネシア、マレーシア、シンガポール、フィジー、ニュージーランド、オーストラリア、パプアニューギニアだった。アジア大会が釜山だったし、フィリピンは麻生さんの相棒がいたので訪問した.
当時、私は未だ英語がうまく話せなかったが、はじめの訪問国オーストラリアで2時間にわたる講演をすることになってしまった.未だに赤面するが、自分自身が何を話しているのかわからなくなってしまった.当時、大阪青年会議所の数人がわたくしの訪問にあわせて来てくれていた.樋口薬局の樋口もいた.そもそもオーストラリア英語が全く理解できなかった.理事会に出席し、会頭から会議の内容について、講評をしてくれと言われて、何を言っていいのかわからなかった記憶がある.
この副会頭の選挙で麻生さんにお世話になった.選挙期間中、何位に当選するかの票を読む.世界中の投票数と誰が誰に入れるかを調査する.10日間はこの選挙戦で、毎晩2時3時まで交渉する.当時アジアは麻生さんとフィリピンのデビッド・チュア・ウンスだった。かれはフィリピンのMill AssociationのChairmanだった。彼はフィリピンのボスだったが、数年前に逝去した。この2人が私の選挙の裏幕だった.
爾後、10数年、私は青年会議所にお世話になったが、特に麻生さんにはこの国際会議での交渉の仕方を教わった.夜通しと言っても良いくらい、毎晩各国の代表と交渉する.数年後にかっての国際青年会議所の会頭をした王子英がその前に落選したことがあった.これは晴天の霹靂で、この前もこのあとにもこう言うことはなかったが、根回しの謀反であった.選挙もそうだが、会費の値上げも私がTreasurerの時におこなったが、これにも根回しが相当あった.
国際会議は昼間決まらないと言うことを知った.すべてが夜に来まる。多分、この青年会議所だけでなく、すべての国際会議は会議の前とかあとで決まる.通常、そこには日本人がいる事はまず無い.唯一日本人がこの交渉に関与している団体が国際青年会議所だ.もう一つこの国際会議で、覚えたのにロバート議事法が会った.このロバート議事法は議長をする人であれば、必須で、議長は習熟すれば、発言させなかったり、操作したりできる.この勉強に相当の時間を使った.
だから、先ほども言ったように、麻生さんだけがいまの政治家で国際会議を操作できる人だと思う.そんな事は本にも書けないし人にも言えない.外国人の政治家であれば、当たり前の事だからだ.ところが私がいままで言って来たように日本人はこのグローバル価値観を持っていない.だから、国際会議で発言できない.これは英語ができるかどうかの問題ではない.
国際青年会議所には欧米の大学を卒業して、日本製年会議所の国際部に入ってくる人材はたくさんいる.彼らは英語が堪能だが、会議で発言することはできない.そうした価値観を持っていないからだ.私はこうした経験を1997年頃まで経験させてもらった.先ほどのデビッドが逝去して、この団体から手を引いた.目に見えない大きな財産をこの団体からもらうことができた.日本企業の本社のグローバル化はこの経験から来ている.
今日はもう時間だ.このくらいにしよう.
今朝は日本人が国際会議で発言できないと言う話をしよう.昨日、秋葉原で、麻生さんがはじめての街頭演説をしてたが、政治家で唯一彼だけだと思うが、国際会議で発言が出来る人だ。彼は1985年にはじめてお会いした.青年会議所のカルタヘナ世界会議だ.カルタへナは南米のコロンビアにある.いまから20年以上も前の話だ.当時はアクセンチュアではなく、まだ、アーサーアンダーセンだったように記憶している.当時の社長は白鳥栄一さんで、太っ腹の大人だった.なぜか。この世界会議で会社を3週間も休んでしまったからだ.
副会頭に立候補して、当選したから、さらに一週間当選したので、研修をしなければならない.通常であれば、会社が許すはずが無いが、白鳥さんはそれを黙殺して、許してくれた.カルタヘナから国際電話をしたが、さすがに社長は出てくれなかった.当時、後に社長になる村山が私の部下だった.それが幸いした.彼が私の留守を管理してくれた.彼と私の当時の上司、森さんが守ってくれた.サラリーマンとしては強運だった.上下で私の道楽を守ってくれる企業などまず無い.ましてや、アメリカの企業だ.いまアメリカで弁護士業をしている堀篭さんはかって私がアーサーアンダーセンに勤めていると言ったが、最後まで、信じてくれなかった。
アーサーアンダーセンに勤めながら青年会議所の会員を維持する事は不可能だからだ.ましてや、国際青年会議所の副会頭なんてあり得ない.その1年間はほとんどの仕事ができないからだ.1年の内合計で、3ヶ月ぐらいは担当国回りだ.担当国はインドネシア、マレーシア、シンガポール、フィジー、ニュージーランド、オーストラリア、パプアニューギニアだった。アジア大会が釜山だったし、フィリピンは麻生さんの相棒がいたので訪問した.
当時、私は未だ英語がうまく話せなかったが、はじめの訪問国オーストラリアで2時間にわたる講演をすることになってしまった.未だに赤面するが、自分自身が何を話しているのかわからなくなってしまった.当時、大阪青年会議所の数人がわたくしの訪問にあわせて来てくれていた.樋口薬局の樋口もいた.そもそもオーストラリア英語が全く理解できなかった.理事会に出席し、会頭から会議の内容について、講評をしてくれと言われて、何を言っていいのかわからなかった記憶がある.
この副会頭の選挙で麻生さんにお世話になった.選挙期間中、何位に当選するかの票を読む.世界中の投票数と誰が誰に入れるかを調査する.10日間はこの選挙戦で、毎晩2時3時まで交渉する.当時アジアは麻生さんとフィリピンのデビッド・チュア・ウンスだった。かれはフィリピンのMill AssociationのChairmanだった。彼はフィリピンのボスだったが、数年前に逝去した。この2人が私の選挙の裏幕だった.
爾後、10数年、私は青年会議所にお世話になったが、特に麻生さんにはこの国際会議での交渉の仕方を教わった.夜通しと言っても良いくらい、毎晩各国の代表と交渉する.数年後にかっての国際青年会議所の会頭をした王子英がその前に落選したことがあった.これは晴天の霹靂で、この前もこのあとにもこう言うことはなかったが、根回しの謀反であった.選挙もそうだが、会費の値上げも私がTreasurerの時におこなったが、これにも根回しが相当あった.
国際会議は昼間決まらないと言うことを知った.すべてが夜に来まる。多分、この青年会議所だけでなく、すべての国際会議は会議の前とかあとで決まる.通常、そこには日本人がいる事はまず無い.唯一日本人がこの交渉に関与している団体が国際青年会議所だ.もう一つこの国際会議で、覚えたのにロバート議事法が会った.このロバート議事法は議長をする人であれば、必須で、議長は習熟すれば、発言させなかったり、操作したりできる.この勉強に相当の時間を使った.
だから、先ほども言ったように、麻生さんだけがいまの政治家で国際会議を操作できる人だと思う.そんな事は本にも書けないし人にも言えない.外国人の政治家であれば、当たり前の事だからだ.ところが私がいままで言って来たように日本人はこのグローバル価値観を持っていない.だから、国際会議で発言できない.これは英語ができるかどうかの問題ではない.
国際青年会議所には欧米の大学を卒業して、日本製年会議所の国際部に入ってくる人材はたくさんいる.彼らは英語が堪能だが、会議で発言することはできない.そうした価値観を持っていないからだ.私はこうした経験を1997年頃まで経験させてもらった.先ほどのデビッドが逝去して、この団体から手を引いた.目に見えない大きな財産をこの団体からもらうことができた.日本企業の本社のグローバル化はこの経験から来ている.
今日はもう時間だ.このくらいにしよう.