2009年07月21日

発展途上国の債務3

プーアール茶は古ければ古いほど価値が出る。ところがこの古いものがくせ者で、ついうっかり、夜のんでしまうと眠れなくなってしまう。昨晩がそうだった。9時に寝たのだが、12時半に起きてしまった。こうなるともうしょうがないので、この夜長をどうするか考えなければならない。もう一つ問題は起きてしまうのは良いのだが、この反動はどこかでくるので、それがつらい。先日も全く同じ経験をした。ただ、こうして、滅多に勉強できない南米の累積債務の知識を身につけることができることがせめてもの救いだ。昨日の続きだ。

これには歴然とした証拠があり、政府は生活に必須なサービスとか生活必需品に対する助成金を管理する緊縮財政政策を行うことによって、この多重債務の財政を管理している。たとえば、マリの歴史を見てみると、1968年以来、このことに関して明確な実例を提供している。政府が国民の犠牲のもとに、多重債務の利息を支払うべきであると言う条件は1982年にワシントンの機関(IMFのこと)によって採用された戦略に欠くことのできないものであり、その年の8月にメキシコ週間(Mexican Weekend メキシコ債務危機)が引き金となった銀行の危機を解決するためであった。緊縮財政は金利の支払いが継続して行われるための手段の一つであり、USドルに軸足をおいた銀行の流動性問題を避けるためである。同様に明らかな原理として重債務貧困国への発議を設計してきている。特に1982年以降に起こった民間債権者からの債務を減らす目的で、借り入れの借り換えが行われたが、この発議が条件となったのであるが、それがまた、開発の危機をもたらしてしまった。Stuart Corbridgeによると、1982年の多重債務危機は銀行の危機であったが、開発の危機に変化してしまい、ワシントンの機関がそれを仲介したことになってしまった。

債務廃止の影響

ある経済学者は債務免除に反対し、その根拠は国家に対して、その債務のデフォルトを行えば良いと言う気にさせ、彼らが欲しい以上の金額を意図的に借り、その結果、そうしたことは問題の再発を妨ぐことにならないと言っている。経済学者はこのことをしばしば、「モラル・ハザード」だと言っている。しかし、これを批判する人々とか債務免除を支援する活動家は問題が必ずしも借り手になく、貸し手にあると言う。その結果、モラル・ハザードは必ずしも不道徳な借り手ではなく、不道徳な貸し手にあると言う。

経済危機のメカニズムとしての多重債務

経済危機において、役を演じた多重債務の例としてアルゼンチンの経済危機がある。1980年代にアルゼンチンは多くのラテンアメリカ経済同様に、ハイパーインフレを経験した。インフレを管理下におくための過程の一部として、固定相場制がアルゼンチンの新通貨とアメリカドルの間に施行された。このことはインフレが再発しないということを保証した。このすべての新しい通貨の単位はアルゼンチンの中央銀行で発行され、この中央銀行はその発行通貨に対して、USドルを所持しなければならなかった。それゆえ、より多くのアルゼンチン通貨を印刷するためには政府は追加のUSドルを要求された。この通貨制度が施行される以前は政府が財政赤字を解消するために資金が必要であれば、単に紙幣を印刷するだけであったので、インフレを引き起こしてしまった。この新しいシステムにおいては政府は所定年度の税金で得た金額以上の出費をする場合には政府はUSドルでその差額を埋めなければならなくなった。政府がこの差額を埋めるためにUSドルを調達できる方法は輸出業者の所得からより高い税金を取るか、必要とするUSドルを借りるしかない。もちろん、固定為替相場制は構造的な、ということはたびたび起こると言う意味で、財政赤字とは相容れないので、政府が毎年、財政赤字の穴埋めのためにより多くのUSドルを借り入れる必要があったので、結局はUSドルの累積債務の金額が持続不可能なものとなってしまった。

アルゼンチンの債務は1990年代の間、持続的に増大し、1,200億ドルを超えてしまった。こうして構造的な財政赤字が続いてしまったので、政府はより多くを借り続け、債権者は金を貸し続けたが、一方で、IMFはこの国家に金を使うのを抑えるよう勧告し、政府が目下必要とするものへのますますの借り入れを止めさせようとした。債務が累積するにしたがって、政府の構造的な財政赤字がただ単に低インフレの固定為替相場に見合ったものではないと言うことがだんだんはっきりしてきた。政府が使った分だけ稼ぎ出さなければならないか、インフレとなるような金の印刷をしなければならなかった。こうして、為替相場を安定させるための必要なUSドルを借りることができなくなったので、固定相場制は放棄された。投資家は政府が稼いだ金以上の支出を止めることはしないだろうと憶測し始め、それは政府のただ残された唯一の道である、インフレと為替相場制の放棄があった。暗黒の水曜日と似たようなやり方で、投資家はアルゼンチン通貨を売り始め、避けがたいインフレが始まった時にはその通貨はUSドルに対して、価値がなくなることにかけた。

暗黒の水曜日:

1990年10月に東西ドイツが統一されて以来、旧西ドイツ政府による旧東ドイツへの投資が増加し、欧州の金利は高目に推移していた。高めの金利は欧州通貨の増価をもたらした。連動してポンドは次第に過大評価されていくことになり、持続可能性を喪失していった。

これに目をつけたのがジョージ・ソロスである。ソロスは「相場は必ず間違っている」が持論であり、このときもポンド相場が実勢に合わないほど高止まりしていると考えた。そして、ポンドを売り浴びせ、安くなったところで買い戻すという取引を実行することになる。1992年9月になり、ポンドへの売り浴びせは激しさを増した。9月15日には激しいポンド売りにより変動制限ライン(上下2.25%)を超えた。

9月16日にはイングランド銀行が公定歩合を10%から12%へ引き上げ、さらにその日のうちにもう一度引き上げ15%とした。しかし、それでも売り浴びせはとまらなかった。事実上のERM脱退となったこの日はブラックウェンズデー(暗黒の水曜日)と呼ばれている。9月17日、イギリスポンドは正式にERMを脱退し、変動相場制へ移行した。

このことは自己達成的予言となり、速やかに、政府のUSドルの備蓄は底をついてしまった。この危機は2001年12月に起こった。2002年には債務の930億ドルのデフォルトが宣言された。投資はこの国から逃れ、アルゼンチンに向けての資本の流れは殆ど完全に止まってしまった。

アルゼンチン政府は債務を借り換えるための厳しい試練を受けることとなった。債権者の何人かはこのデフォルトを全くの強盗だと罵った。ハゲタカ・ファンドがこの危機の間に極めて安い価格で、債務の債券を購入し、直ちに支払いを求めた。4年の間、アルゼンチンは国際金融市場から、実質的に閉め出されてしまった。

ハゲタカ・ファンド:不良資産に投資するパートナーシップ。この手のファンドは不良資産を安値で買い、それを転売して利鞘を稼ぐ。

アルゼンチンは最終的には取引が成立して、デフォルトした債券の77%は他の組織によって交換され、額面価格がより低くなり、より長い期間となった。この交換は民間の債権者の残りの人たちには認めてもらうことはできなかった。彼らはもとの貸付け金額より大きな割合を政府に支払うよう、要求し続けている。この交渉に同調しない人たちはアルゼンチンに対するアメリカの特別専門委員会のようなグループを立ち上げて、アルゼンチン政府に圧力をかけ、加えて、補償を求めて、アルゼンチンの外貨準備を捕捉しようとしている。

 

 

 



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海野 恵一
1948年1月14日生

学歴:東京大学経済学部卒業

スウィングバイ株式会社
代表取締役社長

アクセンチュア株式会社代表取締役(2001-2002)
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海野塾のイベントはFacebookのTeamSwingbyを参照ください。 またスウィングバイは以下のところに引っ越しました。 スウィングバイ株式会社 〒108-0023 東京都港区芝浦4丁目2−22東京ベイビュウ803号 Tel: 080-9558-4352 Fax: 03-3452-6690 E-mail: clyde.unno@swingby.jp Facebook: https://www.facebook.com/clyde.unno 海野塾: https://www.facebook.com TeamSwingby
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