2009年09月21日
陰謀の理論の一覧表7-2
The Notorious B.I.G.:ノトーリアス・B.I.G.(The Notorious B.I.G.、本名: Christopher Wallace、1972年5月21日 - 1997年3月9日)は、アメリカ合衆国のヒップホップMC。ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区出身。身長190cm、体重136kgの巨漢。愛称はビギー・スモールズ(Biggie Smalles)、単にビギー(Biggie)とも呼ばれる。フランク・ホワイト(Frank White)と名乗ることもあるが、これは映画「キング・オブ・ニューヨーク」の主人公の名前が由来である。MCネームのB.I.G.とはBusiness Instead Of Gamesの略で、「ビー・アイ・ジー」と読むのが正しいが、「ビッグ」とも呼ばれることがある。
2006年にMTVが発表した偉大なヒップホップMCランキングでは、ジェイ・Z、2パックに次ぐ第三位にランキングされた。2パックが1994年年11月に銃撃され、犯人としてビギーとディディを疑ったことにより、彼らの仲は一気に険悪になる。2パックが所属するデス・ロウ・レ コードと、ビギーが所属するバッド・ボーイは1990年代の二大ヒップホップレーベルだった。2パックが銃撃され死亡した際に、「敵対するビギーの指示では」との噂が流れた。ビギーはこれを否定した。
その後、今度はビギーがロサンゼルスでヒップホップ雑誌『VIBE』主催の「Soul Train Music Award」パーティーの帰途に撃たれ、セカンドアルバムリリース前の1997年3月9日に死亡する。どちらの銃撃事件も未解決のままである。一時は公式に捜査が休止されたが、ドキュメンタリー映画「ビギー&トゥパック(Biggie & Tupac)」の2002年公開や、親族の陳情を受け、捜査を再開させる。
Tupac Shakur:2パック(2Pac 本名:トゥパック・アマル・シャクール(Tupac Amaru Shakur) 1971年6月16日 - 1996年9月13日)は、アメリカ合衆国ヒップホップMC、俳優である。ニューヨーク市マンハッタン区ハーレム地区出身、アフリカン・アメリカン。「トゥパック・アマル」は、古代インカ語で「輝ける龍」の意味(インカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルと、彼の2代目を自称し反乱を起こしたホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(トゥパク・アマル2世)の名前から)。
5発(頭部に2発、股間に2発、手に1発)もの銃弾を被弾する事件に巻き込まれる。このとき事件現場にディディとノトーリアス・B.I.G.がいたことから、この事件はバッド・ボーイの陰謀だと疑い、ヒップホップ界は西海岸と東海岸とで激しく対立する。銃撃の怪我も癒えない1995年、ファンにアナルセックスを強要したレイプ疑惑で4年6ヶ月の判決を受ける。1996年9月7日、ラスベガスで友人でもあるマイク・タイソンのファイトを観戦後、横付けされたキャディラックからの銃弾を4発被弾し、同月13日死亡。25歳没。ノトーリアス・B.I.G.と並び、アメリカ東西海岸ヒップホップ抗争の犠牲者と言われている。また、彼の命日は13日の金曜日であったため、様々な憶測が飛び交ったが、犯人や動機はいまだに不明のままである(2パックの母親はこの事件に関して、メディアにビギーとディディではない別の数名の具体的な名前を挙げて非難している)。
Anna Nicole Smith:アンナ・ニコル・スミス(Anna Nicole Smith、1967年11月28日 - 2007年2月8日)は、アメリカ合衆国の月刊誌『PLAYBOY』の元プレイメイトでモデル、女優。アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン出身。本名はヴィッキー・リン・ホーガン(Vickie Lynn Hogan)、2度目の結婚後の本名はヴィッキー・リン・マーシャル(Vickie Lynn Marshall)。『PLAYBOY』創始者のヒュー・ヘフナーに見出され1992年3月に『PLAYBOY』誌の表紙を飾り、「マリリン・モンローの再来」とデビューを飾った。1991年10月ヒューストンのナイトクラブ「ジジズ」(Gigi's)でストリッパーとして働いていた店に客として出入りしていた、テキサスの石油大富豪、J・ハワード・マーシャル(J. Howard Marshall)と出会い、63歳年上の大富豪との結婚に世間を騒がせた。1994年6月27日に結婚し、翌1995年8月4日にJ・ハワード・マーシャルが死去。当時、アンナが夫の葬儀にウエディングドレスを着て参列したと、これもまたマスコミ各誌の話題となり世間を賑わせた。2007年2月8日、アンナはフロリダ州ハリウッドのハードロック・ホテル・アンド・カジノの部屋で倒れているところを発見され、病院で死亡が確認された。39歳だった。息子の謎の死に続き、ゴシップ誌の格好の的となり、彼女の死をメディアも速報で伝えた。
Heath Ledger:ヒース・アンドリュー・レジャー(Heath Andrew Ledger、1979年4月4日 - 2008年1月22日)は、オーストラリア出身の俳優。
アカデミー賞 2008年度 助演男優賞 『ダークナイト』
2008年1月22日、映画ダークナイトの完成を待たずにマンハッタンの自宅アパートで遺体で発見された。28歳没。前年11月頃から不眠症となり、「とても疲れているのに二時間程しか眠れない」と映画『ダークナイト』出演に際してのインタビューでは睡眠薬服用を公言している。また、インタビュー時期は自身の婚約解消と別居に重なる時期でもあった。当時はインフルエンザにもかかっており、薬の併用・過剰摂取による急性薬物中毒による事故死だった。
Michael Jackson:マイケル・ジャクソン(Michael Joseph Jackson、1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国の歌手、作詞、 作曲家 演出家 ダンサー。"King of Pop"と称された。ギネス・ワールド・レコーズでは史上最も成功したエンターテイナーとして認定されている。世界総売上げは7億5000万枚(2006年10月末現在)以上[1]。ギネス記録は「全米シングルチャートで首位を獲得した最年少ボーカリスト(ジャクソン5当時11歳)」、「全米シングルチャートで初登場1位を記録した最初のボーカリスト(You Are Not Alone)」、「年間売上げ高が1億ドルを超えた最初のエンターテイナー(1989年、フォーブス誌)」、「史上最高額の所得を得たエンターテイナー(1989年に1億2500万ドル)」などの記録を保有。
また「最も慈善的なスター」としてギネスにも認定されており、ノーベル平和賞にも2度ノミネートされている。
アルバム『スリラー』(Thriller) に関する記録は「1億400万枚の世界最高枚数の売り上げ」「全米アルバムチャートでの最長期間首位(37週・サウンドトラック盤を除く)」、「最も成功した音楽ビデオ(100万本以上の売上げ)」などのギネス記録を保有している。
2009年6月25日、自宅近くのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医療センターに呼吸停止の状態で運ばれ、その後死亡が確認された。あまりにも急な、そして若すぎる死を惜しむ声は今も世界中で絶えない。50歳没。
マイケルは2期目の再選を狙っていたジョージ・W・ブッシュ大統領の政治方針に反対し、民主党を支持し資金集めに協力しようと2002年4月にはアポロ劇場で「Black or White」「Heal The World」を披露している。2003年11月18日にベスト盤「ナンバー・ワンズ」をリリース。だが、この直後マイケルは性的虐待疑惑で逮捕され、いわゆる「マイケル・ジャクソン裁判」が始まり、世界各国のマスコミから衆目を浴びる。2005年6月13日、性的虐待疑惑のすべての件に関して無罪評決が下る。マイケルの死後、自宅から大量のプロポフォール(商品名: ディプリバン)および鎮静剤が発見された。プロポフォールは外科手術において全身麻酔の導入・維持にも用いられる麻酔薬であり、鎮静作用はあるが睡眠薬と して処方されることはない。手術用の麻酔薬であるプロポフォールは、麻酔医による適切な監視・用法の下でなければ呼吸停止・心停止を起こす可能性がある。
- 2009年5月 専属医としてコンラッド・マレーが雇われる。
- 2009年5月 プロポフォールの処方が始まり、1日辺り50ミリグラム使用する。マレーは「この時点でマイケルはプロフォールを知っており『ミルク』と呼んでいた」と証言する。
- 2009年6月22日 プロポフォールを25ミリグラムに変更し、代わりにロラゼパムとベンゾジアゼピンも投与し始める。
- 2009年6月23日 プロポフォールの処方を中止し、ロラゼパムとベンゾジアゼピンの投与のみに変更する。
- 2009年6月24日 マイケルが不眠に陥る。
- 2009年6月25日 ヴァリウム(鎮静剤)を投与、ロラゼパム投与、ベンゾジアゼピン投与、ロラゼパム再投与、ベンゾジアゼピン再投与、眠れず、使用を中止していたプロポ フォールを25mg投与したところマイケルは眠りについた。10分後、トイレで2分程マイケルから離れ、戻ってみると呼吸をしていなかった。甦生措置を行うも、結果的にマイケルは死亡した。(マレーの証言)。
- 2009年7月11日ロサンゼルス市警察は、プロポフォールの不適切な使用および依存が死因である疑いは強く、処方医による重過失致死の可能性がある、と表明した。
- 2009年7月13日 マイケルの姉ラトーヤはイギリスでの取材において「(麻酔を処方した)医者がマイケルを殺したと認識している」と発言した。
- 2009年7月22日 麻薬取締局とロサンゼルス市警察は、コンラッド・マレーのオフィスを家宅捜索した。
- 2009年7月29日 麻薬取締局とロサンゼルス市警察は、コンラッド・マレーの自宅およびオフィスを再度家宅捜索した。CNNによると容疑は「故殺」。
- 2009年8月24日 コンラッド・マレーへの家宅捜索令状および宣誓供述書がスクープされた。コンラッド・マレーの供述による死亡時前後の具体的な状況と検視局により断定された死因を含む内容だった。
- 2009年8月29日 米ロサンゼルス郡検視局は死因をプロポフォール及び鎮静剤、興奮剤、睡眠剤の複数の薬剤の過剰投与による急性中毒死とし、直接の死因となった薬物はプロポフォール(麻酔薬)とロラゼパム(抗不安薬かつ催眠鎮静剤)の2種類とみられ、自然死ではなく「他殺」と断定したと公式発表した。